剛志地区

ーー 古墳時代からの歴史を紡ぐ ーー

 現在の剛志地区は、仮に伊勢崎市から分離独立して剛志町とした場合、財政面は別として施設・設備だけをみるとほとんどのものが揃っている珍しい地区である。

 町役場・公民館・総合運動場・町営プール・幼稚園保育所・小中学校・公園・病院・老人介護施設・郵便局・私鉄駅など、ないものは図書館と文化センターくらいである。そうした観点で見ると、平成の大合併でも余り進化を遂げていないとも言える。

 字別に昔を辿ってみると、保泉地区は和銅年間(708~715)穂積親王が東征の時に駐在したことに因み、穂積村と名付け、後に保泉と改字したという。勝山神社は、もと穂積大明神といい、上野国神明帳の佐位郡の名社であった。上武士村は、上野守護安藤九郎景盛がこの地で武道を練ったことにより名付けられた。城山の古城跡は、館の山と呼ばれ、浴塘が設けられ繁盛した。能満寺は関東18檀林の名刹とされる。武士神社は白山神社といわれ、穂積親王が野立した跡に創建したと伝えられる。江戸時代になると、例幣使道沿いの保泉村、上・下武士村の3カ村は、広瀬川の渡船役を課せられた。下武士村の鎮守は三社神社、法光寺は真言宗豊山派で本尊は薬師如来である。小此木村は8世紀の頃は朝日の里といい、芝草が多いので後に小柴村となり、柴の字を割り書き読みして小此木となった。当村は利根川・広瀬川の間に位置しているので、渡船場が2個所あった。明和2年佐位34個所の観音霊場が設けられた時、福壽院が第34番札留寺となった。

 編集委員 石原國憲・井上志郎・内田 務・大澤英明・髙澤良彦・根岸利男・茂木伸司・森村清志・堀田浩道・和佐田 稔

 撮  影 髙 澤 良 彦

 写真集編纂に当たって、撮影に大変なご苦労をされた写真担当の髙澤良彦氏、編集に並々ならぬご苦労をされた事務局長の内田務氏、その他編集作業にご協力くださった編集委員の皆様に、心より感謝の意を表したい。

2020年10月15日                       NPO法人 境いきいきアイ                      理事長 田中 敏嗣

INDEX(索引)

① 「剛志の歌」の歌碑  ② 剛志駅  ③ 保泉開田竣功之碑  ④ 鈴木真齋(厳恭)の墓碑  ⑤ 鈴木広川(こうせん)の墓碑  ⑥ 力士「和田の海」の墓碑  ⑦ 勝山神社の格(こう)天井絵  ⑧ 稲荷様(勝山神社所蔵)  ⑨ 木組み灯籠  ⑩ 唐金(からがね)の鳥居  ⑪ 火袋無灯籠  ⑫ 神霊碑  ⑬ 御嶽山(おんたけやま)自然の森公園 ⑭ 武士城の堀跡  ⑮ 境プール  ⑯ 天神山古墳群跡  ⑰ 地神尊(じがみそん)  ⑱ 上武士の板倉  ⑲ 芭蕉句碑  ⑳ 十一面観音像  ㉑ 佐波新田用水取水口(18号堰)  ㉒ 武士神社  ㉓ 森村熊蔵の碑  ㉔ 童子(どうじ)供養塔  ㉕ 秋葉様(秋葉神社)  ㉖ 棟梁 石原翁碑  ㉗ 石原佐市の墓  ㉘ 一本松稲荷  ㉙ 旧剛志村役場  ㉚ 三社神社  ㉛ 陰陽額(おんみょうがく)  ㉜ あばれ神輿  ㉝ 双体道祖神  ㉞ 境剛志小学校・境西中学校 ㉟ 教育者:高木岩蔵碑  ㊱ 旗本宮崎金三郎の墓石  ㊲ 松本王土の句碑  ㊳ 武士橋西詰  ㊴ 菅原神社と格天井絵  ㊵ 石尊山  ㊶ 天田熊郊(あまだゆうこう)碑  ㊷ 道しるべ  ㊸ 左っこき庚申様(こうしんさま)  ㊹ 納経塔(のうきょうとう)  ㊺ 小此木家の板碑  ㊻ 菅原道真公木像  ㊼ 和時計  ㊽ 十二天掛軸  ㊾ 宝筐印塔  ㊿ 五輪塔  51 十一面観音石仏  52 普門品供養塔  剛志地区撮影地まっぷ 

本文

① 「剛志の歌」の歌碑

   (下武士)

「剛志の歌」は、校歌と村民歌を兼ねた珍しい歌で、しかも当時の歌謡界を代表する時雨(しぐれ)音羽(おとわ)と中山晋平(しん ぺい)がそれぞれ作詞・作曲をしています。

昭和の初め剛志尋常高等小学校の歌を作るにあたり、当時の栗原利平校長(尾島町)は、同じ群馬師範学校出身で講談社・キングレコードの要職にあった保泉出身の長谷川卓郎氏(写真右上)に依頼しました。長谷川氏は音楽界と強い人脈を持っていた関係で早速両氏に依頼し1928(昭和3)年に剛志の歌が誕生しました。「群馬の南大利根の・・・・」というテンポの良い歌は、昭和39年に新しい「剛志小学校歌」が生まれるまで歌い継がれました。

② 剛志駅

  (保泉)

東武鉄道伊勢崎線剛志駅は1910(明治43)年に開業し、1927(昭和2)年に電化されました。さらに1968(昭和43)年駅舎が無人化となり、2006(平成18)年には太田~伊勢崎間のワンマン運転が開始されました。今の駅舎(写真)は、2008(平成20)年春に、旧駅舎(写真右下)の東側に建設され旧駅舎は取り壊されました。

現在も無人駅ですが、のどかな駅で近隣には高校などがあり、学生も多く利用しています。

③ 保泉開田竣功之碑

  (保泉)保泉ニュウータウン造成記念碑

「保泉開田竣功之碑」は、1892(明治25)年頃、保泉地方開田の計画を以て調査が始まり、1911(明治44)年に保泉耕地整理が完成した碑として1934(昭和9)年に建立されました。

また、「保泉ニュータウン造成記念碑」は、1991(平成3)年の境保泉住宅団地造成の陳情により、1995(平成7)年 県企業局と境町との間で造成事業に関する協定書が締結され、住宅地として売り出されたことを記念して1998(平成10)年に建立されました。

④ 鈴木真齋(厳恭)の墓碑

  (保泉)(すずきしんさい)

真齋は、親の代から漢方医であったが、江戸に出て二宮桃亭に蘭方を学び帰郷しました。島村の金井万古に師事して俳諧を学び、漢詩も能くし、伊勢崎藩大目付で儒官の長尾景範に高く評価されていました。

また、金井烏洲、天田熊郊、鈴木広川ほか伊与久の文人などとの交流がありました。万古、烏洲、広川ら文人の診察なども行っていましたが、1838(天保9)年頃から流行病が蔓延し、真齋もこの病気に罹り、同じ年の6月に49歳で亡くなりました。

⑤ 鈴木広川(こうせん)の墓碑

  (保泉)

広川は師につかず、独学で学問を修め、田んぼの往来にも書物を手ばなさなかったといいます。性来の学問好きで、はじめ荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)、ついで山崎闇齋(あんさい)に学び、進んで諸家の説を勉強し、儒学の道に通じました。そうして文政年間から天保の間境町付近の文人と深く交わり、また江戸の学者とも交流がありました。

広川は詩文を能くし、名著「漂(ひょう)麦(ばく)園(えん)文集」12巻を残しています。

1780(安永9)年~1838(天保9)年 59歳。

⑥ 力士「和田の海」の墓碑

  (保泉)

勝山神社の南道路脇、和佐田家の墓地の一角に、高さ3m程の立派な墓碑が建っています。墓石には「和田の海忠太郎墓」と、力士の名が記されています。

「和田の海」の四股名(しこな)は、本名の「和佐田」から付けられました。明治から昭和の初めにかけては田舎相撲が盛んで、木島・伊与久・上渕名・保泉などに力士がいました。

碑裏にはこれら力士の外、木島の大関登煙伝次郎、東京相撲湊川、行事木村周吉、親族ら大勢の名が刻まれています。力士「和田の海」は、東京相撲年寄玉垣岳之助から地方世話人免許を授与されて活躍し、1922(大正11)年に他界しました。

⑦ 勝山神社の格(こう)天井絵

  (保泉)

勝山神社の拝殿は弥勒寺音次郎の造営といわれ、格天井には江戸時代島村の南画家金井烏洲が描いた絵が飾られています。格天井は45面からなり、各面には花(椿・牡丹など)、鳥(孔雀・雀など)、動物(兎・虎など)、人物(中国故事の太公望など)が描かれています。作品が描かれてから180年程たった今も、鮮やかな色彩が残っています。

なお、絵は烏洲と近在の絵師の合作によるとの説もあります。

⑧ 稲荷様(勝山神社所蔵)

  (保泉)

稲荷様は、以前勝山神社西方300m程の所に鎮座していましたが、1906(明治39)年他の金毘羅宮などと一緒に勝山神社社殿内に合祀されました。

この稲荷様は、1764(明和元)年京都より正一位稲荷大明神として勧請され、当初は保泉村飯野一族の氏神として祀られていたとの言い伝えがあります。社殿は一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)でこじんまりした造りですが、木鼻・獅子鼻・象鼻が配され、三方には中国の故事にちなんだ見事な彫刻が飾られています。江戸時代に花開いた神社仏閣の彫刻文化が色濃く残る建造物として注目されます。

⑨ 木組み灯籠

  (保泉)(勝山神社所蔵)

灯籠は、普通は石や鉄で作られますが、勝山神社の灯籠は木材を精巧に組合せて作った「木組み灯籠」で、現在1対2基が残っています。側面には見事な彫刻が施され、その精巧さに魅せられます。この灯籠の作者は、下渕名の宮大工弥勒寺音次郎です。音次郎は彫技に優れ太田の冠稲荷社などの寺社彫刻を沢山手掛けています。

神社の祭典には、この灯籠を社殿正面に立てて明かりを灯し、壮厳な雰囲気が醸し出されました。残念なことに、灯籠は長年の経過でかなり傷んでおり、柱も紛失して一対で立てることがむずかしくなっています。

⑩ 唐金(からがね)の鳥居

  (保泉)(勝山神社境内)

保泉には、「優れたものが二つあり、四九郎先生(鈴木広川)に唐金の鳥居」という謂(いわ)れが伝わっています。この「唐金の鳥居」が勝山神社の鳥居です。鳥居は材木・石などで造られるが、勝山神社のは「唐金」つまり『銅』で出来ています。鳥居は江戸時代の中期1769(明和6)年、鋳物の産地野州佐野の鋳物師崎山五左衛門によって造られ、村の有志によって奉納されました。唐金の鳥居からは、地域の安全と無事を願い、立派な唐金の鳥居を奉納した村人達の厚い信仰心が伝わってきます。

⑪ 火袋無灯籠

  (保泉)(勝山神社境内)

地元の氏子や信者達から奉納された火袋の無い灯篭で、古いものでは、1806(文化3)年のものが10基ほど並んでいます。

火を灯す火袋を省略した装飾的な灯篭で珍しい形をしています。

⑫ 神霊碑

  (保泉)(勝山神社境内)

1869(明治2)年 保泉村は、全村あげて神葬祭に改め、祖先の霊を勝山神社境内に祀って祖霊社としました。祭祀には496人が加わり、村の殆どが神葬祭に移行しました。

保泉の人が先祖を神として祀り、仏との縁を切った記念の碑です。名石・名碑のたぐいではありませんが、境地区(旧境町)にただ一基残される神葬祭の石塔です。

⑬ 御嶽山(おんたけやま)自然の森公園

  (上武士)

地元の人々に、御嶽山と親しまれている公園です。芝生広場にはせせらぎが流れ、夏には蛍池で蛍が乱舞し、四季折々の花が咲き乱れ、野鳥の宝庫ともなっています。

秋に咲く紅白の曼殊沙華は、遠方から大勢の人々が訪れ、近郊の保育園児や小学児童等で賑わいます。

また、御嶽山には武士城の砦があったとも伝わっています。

⑭ 武士城の堀跡

  (上武士)

戦国時代、御嶽山の東に武士城という城(館)がありました。この城は小田原北条氏の支配下にあった金山城主由良氏の家臣根岸三河守の居城でした。しかし、豊臣秀吉の北条攻めにより金山城も落城し、武士城も廃城となりました。

学童保育所の西にある堀(写真右下)は城を囲む堀跡で、もとは北の方まで延びていて、水遊びや魚捕りをしたそうです。今でも御嶽山の東に残る『舛形』という小字名は城があった名残りです。

⑮ 境プール

  (上武士)

1982(昭和57)年7月に完成し、広瀬川や境西中学校のすぐ近くの自然が多い場所に立地する伊勢崎市営の屋外プールです。ゆったりと流れる「流水プール」は広々として開放的です。

珍しい直線式の「ウォータースライダー」の高さは約8mもあり、上がると川沿いに広がる自然や景色が見渡せます。

また、暑い夏には大勢の市民が訪れて賑わっています。

⑯ 天神山古墳群跡

  (上武士)

境総合グランドの辺りは、昭和の初め頃まで大小さまざまな古墳が100余基もあり、武士古墳群と呼ばれました。今は畑になっていますがその中の天神山古墳は、前後120mもある巨大古墳でした。

古墳からは犬や猪など有名な埴輪が多数出土し、中には国の重要文化財に指定されて、東京国立博物館に展示されているのもあります。それらの古墳も、昭和の初め頃からの開墾や戦後の工業団地造成の採土により、1500年程前の貴重な遺跡は跡形もなくなり、なだらかに畑が広がっているのみです。

⑰ 地神尊(じがみそん)

   (上武士)

地の神は、地神様・社日様・堅牢地神などと呼ばれ、とくに農家の守護神、作神様として信仰されています。

また、信仰形態としては、いく軒かの農家が組み「地神講」や「社日講」を結び、講祭を行っている例が多く見られます。

祭日は社日、つまり春秋の彼岸の中日に一番近い戊(つちのえ)の日としており、「社」とはこの場合、土の守護神のことを意味します。また、この日は畑などに入って、土を動かしたりしてはいけないと言われてきました。

⑱ 上武士の板倉

  (上武士)

門倉武士宅の庭先に古い物置風の建物が建っています。建物は間口1.5間(2.7m)、奥行き0.75間(1.4m)、四方が横張板囲い、上下に天井板と床板が張られた珍しい建物です。

この建物はかなり古く、江戸時代中期の明和6(1769)年に建てられた食料備蓄用の建物とされます(『ふるさと散歩・上武士』より)。この倉は門倉家個人として使われた板倉なのか、村共用の倉なのか明らかではありませんが、地域に残る貴重な古建築といえます。

⑲ 芭蕉句碑

  (上武士)(能満寺境内)

1903(明治36)年 伊与久の揚州庵高井半湖の弟子小泉茂質によって建立されました。「無き人の 記念(かたみ)もいまや 土用干し」の句は、芭蕉の高弟である去来の妹の千子(ちね)の死を悼んで詠んだ句です。

句意は、「亡くなった人の着物も、今頃は土用干しをしているだろうか」ですが、原句の中七句は「小袖もいまや」であるのに、半湖はなぜ「記念」と詠み変えたのでしょうか。

⑳ 十一面観音像

  (上武士)(能満寺境内)

能満寺境内にある十一面観音石像は境地区にただ一基ある像です。像は舟形の光背に半(はん)肉(にく)彫(ぼ)り、塔身はおよそ50cmほどです。光背両側に「奉建十一面観音菩薩 当所繁昌所 元禄十三辰年(1700年)十一月吉日 上武士村施主富田■右衛門」と銘文があります。

十一面観音というのは写真でもわかるとおり、頭に十面を付しているので合わせて十一面の顔をもつ観音様のことで、衆人にもっとも親しまれました。

㉑ 佐波新田用水取水口(18号堰)

  (上武士)

粕川18号堰からの取水は1603(慶長8)年頃より徳川家始祖の墓所長楽寺並びに東照宮の御神(ごしん)水(すい)として通水し、ちくじ世良田幹線水路を改修掘削し、開田が盛んに行われました。 

更に1924(大正13)年、コンクリート工18号堰を築造し農業経営の安定を見てきました。しかし長年にわたる取水によりコンクリート工堰の破損をきたし、粕川護岸改修工事着工に至り、1980(昭和55)年に工事が完了し、約200町歩の水田を潤しています。

㉒ 武士神社

  (上武士)

創建は、和銅年間(708~715年)と云われ、祭神は菊(くく)理(り)姫(ひめの)命(みこと)です。はじめは白山大明神と呼ばれ、村の広瀬川畔にありました。その後1571(元亀2)年 那波宗俊が小田原北条氏と戦うときに、同社に戦勝を祈願しました。

明治初年同社境内には御嶽、三ツ峯、八幡、秋葉、水神宮があり、村内のあちこちには稲荷、浅間などの諸社があり、境町には珍しい蛇宮と傍らに琴平大権現がありました。1908(明治41)年3月 白山大明神を今の地に移設して武士神社として、村内諸社を合祀しました。社殿の外には武道の額や教育者の上げた額が奉納されています。

㉓ 森村熊蔵の碑

  (曲輪町)

伊勢崎織物組合の敷地内に、上武士出身の実業家森村熊蔵の頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)が建てられています。森村熊蔵は、代々染色業をしていた上武士の森村家に生まれ、家業を継ぎました。熊蔵は、才気に富み絹(けん)紡糸(ぼうし)を使った伊勢崎織物を開発したり、化学染料を用いた色彩豊かな伊勢崎銘仙を考案しました。また、織機や製法も改良、「森村(もりむら)縮緬(ちりめん)」の海外輸出も行いました。42歳で県会議員、46歳で伊勢崎織物商工組合長を歴任し、伊勢崎の経済・政治に多大な功績を残した熊蔵は、1897(明治30)年に、48歳で亡くなりました。(碑は伊勢崎市指定文化財)

㉔ 童子(どうじ)供養塔

  (下武士)

佐波新田用水で、子どもを亡くした親が、その冥福を祈るために1779(安永8)年に建てたという供養塔です。

像容は観音菩薩とみられます。島村の宝性寺にも一基あり、像塔で子供観音と呼ばれています。

㉕ 秋葉様(秋葉神社)

  (下武士)

火伏の神を祀る秋葉神社を下武士新田地区の人達は「あきやさま」と呼んでいます。かつて、この地域は火災に悩まされ、以後の火災を防ぐため地域の人の中には「明治の時、火伏の神の秋葉様を東京の秋葉神社から分霊して招いた」と言う人もいます。

この「あきやさま」の記録を見ると、太平洋戦争中も中断することなく、火伏の祭祀が行われ現在も続いています。

㉖ 棟梁 石原翁碑

  (下武士)

石原島吉は当時世に知られた明治時代の工匠です。世良田村の棟梁中島亀次郎のもとで修行し、大成して伊勢崎市下植木の天増寺や境町下渕名の大国神社本殿を建造しました。棟梁の力量と共に人格に優れ、弟子は30余人にものぼりました。1930(昭和5)年、86歳で天寿を全うしましたが、亡くなる5年前の1926(大正15)年に弟子達が師匠を偲んでこの顕彰碑を自邸内に建てました。

㉗ 石原佐市の墓

  (下武士)

江戸時代、下武士村の石原佐市は、当時の蚕種・養蚕の本場であった奥州福島伊達郡掛田村の川城屋(佐藤)久之助と交流し、霜に強い新しい桑を作りました。

この桑は後に佐市桑と呼ばれ、村の養蚕を発展させ全国に広まった功績により、上総国(千葉県)長柄郡一宮藩と伊勢崎藩の二つの藩より表彰されたといわれています。

後に、周辺で作り出された桑は、佐市桑を改良したものといわれました。佐市は1871(明治4)年85歳で亡くなりました。

㉘ 一本松稲荷

  (下武士)

日光例幣使道が広瀬川の「竹石の渡し」を超えて下武士村に入って行くと、一本の見事な老松が旅人を迎えてくれました。(この松は今の松ではなく、稲荷様の道南にあった茶屋の店先にあったという)。その老松の北側に小高い築山があり、江戸時代に御嶽講などの信者により築かれたものです。その左側に京都から勧請された稲荷様があります。築山には御嶽山・八海山などの文字を刻んだ石碑があり、上州・武州の講中の人々が山岳信仰によって建立したものです。

㉙ 旧剛志村役場

  (下武士)

旧日光例幣使道下武士地区の中間地点の南側に、旧剛志村役場の庁舎があります。この建物は1936(昭和11)年に剛志村役場として新築され、当時のドイツの日本大使館を真似たと言われています。

剛志村は、1889(明治22)年4月1日に保泉村、上武士村、下武士村、中島村、小此木村が合併して誕生しました。また、合併直後の村議会及び役場事務などは法光寺で行われていました。現在は市の文化財の収蔵施設として利用されています。

㉚ 三社神社

  (下武士)

三社神社は、100基ほど存在したと言われる武士古墳群の一つ、全長50m程の古墳の上に祀られています。古くは三社宮と呼ばれていたようです。神社の由緒書には上野守護の安達景盛(頼朝の重臣、藤原を名乗る)が、この地で武を練り奉祀したと伝えられています。

祭神は大日(おおひ)霊(るめの)命(みこと)(天照大神)、誉田(ほんだ)別命(わけのみこと)(応神天皇、源氏の守り神)、天児(あまのこ)屋根(やねの)命(みこと)(藤原氏の守り神)の三神が祀られていることから三社神社と呼ばれています。

なお、以前の社殿は老朽化したため2005(平成17)年に新しく建て替えられました。

㉛ 陰陽額(おんみょうがく)

  (下武士)(三社神社所蔵)

三社神社拝殿には、全国的に珍しい陰陽額が懸けられています。江戸時代には額に「和算」(日本の数学)の問題や解法を記して神社や寺に奉納することが行われました。陰陽道とは万物の生成消滅は陰と陽によって起き、それにより災異・吉凶を占う方術です。陰陽額は、そうした陰陽と和算とを組み合わせたものと考えられます。額は江戸時代の1798(寛政9)年に下武士新田の名主石原亀次郎ほか社中の人達が奉納しました。この額は当地でも和算が行われていたことを物語る貴重な文化遺産といえます。

㉜ あばれ神輿

  (下武士)(三社神社所蔵)

かつては「あばれ神輿」と呼ばれていた三社神社の神輿も、今は担ぎ手の不足で神社の倉庫に静かに収まっています。

この神輿は総(そう)欅(けやき)造りで、1 トンの重量があります。担ぎ棒は二本の二天棒と呼ばれ前後左右に動きやすく関東地方に多い担ぎ方です。神輿は当時世に知られた棟梁石原利吉・才次郎親子の作です。昭和の初め頃迄の夏祭りでは、村を練り歩いた後広瀬川で水中(すいちゅう)渡御(とぎょ)が行われました(写真右下)。

戦後になって、村から出ていく若者が多くなり、担ぎ手の減少とともに祭りの主役である八坂の神輿も姿を消してしまったのです。

㉝ 双体道祖神

  (下武士)(三社神社境内)

道祖神は、道の神、旅人の安全、村境を守る神、縁結び、子授け等信仰内容は多岐におよんでいます。双体で男女のものは江戸時代後期に盛んに造られました。

双体は山間部に多く、境地区にはほかに東新井に一体あります。古いものは直立、また一体だけのものが多く、三社神社にあるものは旧日光例幣使道の側にあったものが移設されたと思われます。

㉞ 境剛志小学校・境西中学校

   (下武士)

剛志小学校の歴史は、1874(明治7)年上武士・保泉・下武士村の三カ村合同で上武士村永運寺(武士神社西)を利用した武士学校に始まりました。1889(明治22)年に剛志尋常小学校、同35年に剛志尋常高等小学校となり、敗戦後の1947(昭和22)年、六三制により剛志小・中学校となりました。2005(平成17)年には伊勢崎市と合併し、中学校は境西中学校と改称されました。現在の校舎は剛志小学校が1979(昭和54)年、境西中学校が1988(昭和63)年に建築されました。

㉟ 教育者:高木岩蔵碑

  (下武士)

剛志小学校の校舎南フェンス際に二つの石碑が建っています。そのうちの右側が「高木岩蔵」の碑で、岩蔵は学制が徐々に整いつつあった明治初期の剛志村の教育向上に尽した教育功労者です。

1893(明治26)年には剛志尋常小学校長となり、学校へ行けない子のために自宅に夜学を設けて教えたりしました。先生の徳をたたえた顕彰碑が地元村民・遺族を初め多くの教え子達の力によって、1913(大正2)年に建てられました。

剛志の教育に多大な功績を残した岩蔵は、1904(明治37)年、47歳で世を去りました。

㊱ 旗本宮崎金三郎の墓石

  (下武士)(法光寺境内)

金三郎は関ケ原の戦いで深手を負い、江戸まで戻れず知行地である下武士村で16歳頃亡くなったと伝えられています。この写真の墓は法光寺にある墓ですが、元の墓は境郵便局の北の道場(どうば)に墓が残っており、この墓石は改葬されたものと考えられます。

亡くなった金三郎の位牌は法光寺に安置されています。その後宮崎家は従兄の岡部藩安部信義の長男泰次が引き継ぎました。なお、金三郎と泰次の母は武士城主根岸三河守の娘で、末裔の方は現在東京に在住しています。

㊲ 松本王土の句碑

  (下武士)(法光寺境内)

松本王土は、1898(明治31)年に東京都に生まれ、豊山中学校を卒業後小俣の鶏(けい)足寺(そくじ)、足利の鑁阿寺(ばんなじ)で修行し、次いで新田郡花香塚村安楽寺の住職を経て法光寺の住職十八世を継ぎました。若い頃より詩才があり、句を松根東洋城、詩を萩原朔太郎に学びました。生前には、寺院内で句会も開催されました。王土は昭和32年、59歳で亡くなり、後に「生れ 生れ 生れ 生れて 法の露」と刻まれた句碑が松本寧至住職により境内に建てられました。

㊳ 武士橋西詰

  (下武士)

写真は、旧日光例幣使道「竹石の渡し跡」付近の武士橋西詰側です。江戸時代は、現在の県道142号線(旧国道354号線)が広瀬川に架かる武士橋付近に「竹石の渡し」がありました。江戸幕府は、江戸を守るために川に橋をかけず川船で渡すようにしたのです。ふだんは近郷の人や旅人に利用されていましたが、4月の徳川家康忌には、例幣使や公家の大通行があり、渡船場を修理する上・下武士村と保泉村の3カ村の負担は大変であったといわれています。橋は明治になって船から木橋になり、その後コンクリートの橋になり今に至っています。

㊴ 菅原神社と格天井絵

  (小此木)

菅原神社には、学問の神様として信仰される菅原道真が主祭神として祀られています。菅原神社の創建については、江戸時代前期の1631(寛永8)年(『上野名蹟図誌』)や同中期1742(寛保2)年(「福壽院資料」)の諸説があります。

神社拝殿の格天井には28枚の絵が描かれています(写真右下)。絵は江戸時代の地元小此木の南画家天田熊郊(ゆうこう)により1842(天保13)年に描かれました。老人や狛犬・菊・布袋などめでたい絵柄が主に描かれています。

㊵ 石尊山

  (小此木)

石尊山とは、神奈川県の大山に祀る石尊宮を元宮とする信仰です。この石尊山は広瀬川堤防下に祀られています。浅間山の噴火により、溶岩流で出来た石灯籠で、正面には「石尊大権現」、裏には安政6年(1854年)6月吉日と銘記されています。

高さは約2mあり広瀬川を利用している帆船の航行安全を願った「灯台」の役割りを果たしたものです。

地元では現在でも当番制で年中行事を行っています。

               (伊勢崎市指定伝統行事)

㊶ 天田熊郊(あまだゆうこう)碑

  (小此木)

熊郊は1796(寛政8)年小此木村に生まれ、江戸の画家春木南湖と島村の金井烏洲に画法を学びました。特に山水花鳥画が巧みでした。また画を修めるかたわら和漢の名蹟を尋ね、画技学識高く、熊郊の門に学ぶ者が多く、豊受の松本宏洞は高弟の一人でした。熊郊は1876(明治9)年、81歳で亡くなりましたが旧邸内には1878(明治11)年12月に熊郊の石碑が建てられました。碑文は熊郊の弟子の松本宏洞書です。

㊷ 道しるべ

  (小此木)

庚申塔を兼ねたこの道標は、昔この地点が小此木の交通の要所であったことを示しています。狭いこの四辻は境町、木島、本庄、伊勢崎の方面へ通じる主要道路でありました。

また「猿田彦大神」と刻され、俗に道おしえの神様といわれているものです。これを庚申様とも呼んでいます。

庚申信仰と猿田彦が混交した例は沢山ありますが、建立者の堀込弥五郎は、庚申信者と道標(みちしるべ)を兼ねて建てたものと思われます。

㊸ 左っこき庚申様(こうしんさま)

  (小此木)

60日に一度巡ってくるのが庚申の日で、60年に一度巡ってくるのが庚申の年です。この日は夜も眠らずに過ごし、健康長寿や五穀豊穣を願う信仰行事の「庚申待ち」が行われてきました。本庚申様は1680(延宝8)年11月の建立で、高さ120cm、舟形向背に浮き彫りに施された青面(しょうめん)金剛像です。この像は「左っこきの庚申様」と呼ばれ、左利きの人が願掛けすると右利きになるとの俗信を伝えています。境地区では2番目に古い庚申様です。 (伊勢崎市指定石造文化財)

㊹ 納経塔(のうきょうとう)

  (小此木)(観音堂境内)

信徒の方々が、いろいろな願いを込めて写経し、それを石の内部に納めて作った塔を納経塔といいます。

この塔は「宝篋印陀羅尼経」という経を写経し、納めて建立した宝篋印塔で、1775(安永4)年に地元の天田一族が建立したものです。総高は約3mもある立派なものです。

㊺ 小此木家の板碑

  (小此木)

『境町の石造物』(境町教育委員会)によると、板碑とは青石塔婆とも呼ばれ、故人の冥福を祈るために造立され、主に中世(鎌倉~室町期)に造立されました。

小此木家屋敷内に建立されているものは、緑泥片岩製で中央に梵(ぼん)字(じ)で阿弥陀如来、その下側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩と刻まれ、1364(貞治3)年7月22日に建立されています。

㊻ 菅原道真公木像

  (小此木)(福壽院所蔵)

1449(宝徳元)年に作られた寄せ木造りの彩色座像で、高さは20cmです。台座があって桐箱に収められています。

箱の高さは41cmあり、台座裏の墨書には次の様に記されています。「那(な)波(わ)無理之介家老玉村上ノ大橋久七郎が調達し、1449(宝徳元)年8月に上野玉村佛師曽弥が作った。小此木村の富岡丈三郎が1762(宝暦12)年に福壽院へ奉納した」と、福壽院住職尊快が記しています。

㊼ 和時計

  (小此木)(福壽院所蔵)

機械式の時計が西洋から日本に入ってきたのは、種子島鉄砲とほぼ同時期の戦国時代です。鉄砲はすぐに戦国大名に広まりましたが、昼夜に関係なく24時間を表示する「西洋式の時計」は、夏と冬の昼間の長さにあわせて時刻の表示を替える日本の「不定時法」にはなじみませんでした。

江戸時代に日本の「不定時法」に合せた時計は「和時計」と呼ばれ、大名や豪商など一部の層しか所有できませんでした。なかでも福壽院の和時計は、「一挺天府(いっちょうてんぷ)、割り駒式」という珍しい構造になっています。

(伊勢崎市指定重要文化財:平成30年指定)

㊽ 十二天掛軸

  (小此木)(福壽院所蔵)

十二天とは、仏様を守る12の善神であり、毘沙門天・帝釈天・風天等です。福壽院のものは、12本の掛軸になっていて紙本彩色です。画面の大きさは、高さ100cm、横幅が40cmで「文化元年(1804年)修復す」と記されています。近年に於いて破損状態がひどいので、往時の状態に復元した貴重な文化財です。その他、閻魔天(えんまてん)・火天・羅刹天(らせつてん)・水天・伊舎那天(いしゃなてん)・梵天・地天・日天・月天(がってん)で十二天となります。

㊾ 宝筐印塔

  (小此木)(福壽院境内)

1334(康永3)年4月8日に建立の納経塔で一部欠損していますが、石質は堅い安山岩で、基礎の高さは38cm、全高が120cmあります。地元32名の人が極楽往生を願って建てたもので、梵字で光明真言が刻んであります。

なお、県内では10番目に古いと言われています。

㊿ 五輪塔

  (小此木)(福壽院境内)

五輪塔は、仏教の宇宙観を五つの石を積み上げて表現した塔です。宇宙は地・水・火・風・空の元素で構成されていることを示し、現在では墓碑としても使われています。

福壽院の塔は「赤城の石の五輪塔」と云われ、大変古い形式を残しています。総高132cmで、材質が柔らかくて刻字は一切読めませんが、約600年前の1400年頃に建てられたものと言われています。

51 十一面観音石仏

   (小此木)(福壽院境内)

観音様は、すべての衆生を救済するために三十三にも変化すると説かれています。その一つが「十一面観音」です。

この観音様は、1762(宝暦12)年に、厄年に該当する人達が心を一つにし願いを込めて建立した塔で、高さは140cmです。

石仏は、信州高遠伊那郡溝口(長野県)の石工(いしく)によって造られました。境地区には高遠の石工による石造物が数基現存しています。信州高遠の石工集団は、全国的にも有名で境地区にも瑳珂比神社や勝山神社に立派な石塔が残っています。

52 普門品供養塔

  (小此木)(福壽院境内)

普門品とは、観音様の功徳を説いた「観音経」のことです。その経を声を出してお唱えするだけでなく、百万遍とか、ある一定の回数を唱えた記念に建立したものを普門品供養塔といいます。

この塔は1734(享保19)年の建立で、高さ70cmと小型ではありますが、境地区でも貴重な供養塔です。 

協賛:一般財団法人さかい・ふるさと創生基金

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