島村地区

ーー 蚕種養蚕業と文化の発展を誇る ーー 

 廃校となった島小学校は、かつて全国的に注目される学校であった。昭和30年代前半迄は、無著成恭の山びこ学校に代表される生活つづり方教育が全盛であった。同じ頃、斎藤喜博は島小教育で、独自の教育理念で教職員・父母・地域の人々と協力して、強力に実践を進めた。1、劣生がいない教室・劣生がいなくなる教育。2、競争を認めない。3、自己完成。4、心を育てる。この教育は11年に及んだ。その間、全国に向けての公開研究会を5回実施している。

 この研究会は、県や市の主催ではなく、島小の職員と子供たちの日常の教育活動を公開し、それを材料にして、全国の学者、学術家、父母、教師、教育委員会の手で「教育の真実とは何か」ということを討論した。5回続かれた研究会には遠く青森、四国、宮崎などから実費で参加する者が300名を超えた。島小の研究会は、第1回の開催以前から全国各地より参観する者があって、述べ人数では何千人にものぼっている。会全体は儀礼的なものは排除し、学校側の開式の挨拶もなければ来賓の挨拶もない、子供も教師も少しのぎこちなさもてらいも尊大さもなく普段と同じように進められた。

 当時の学校を支えた教師は、斎藤喜博を筆頭に武田常夫、川島環、岡芹忍、久保田和子、船戸咲子、大沢清剛、滝沢友次、金子緯一郎、赤坂里子の面々である。いずれにしても、田島弥平は江戸時代後期に蚕の飼育法を確立しヨーロッパまで交易を拡大させ、田島善平は明治中期に日本基督教団島村教会を設立し、金井烏洲は全国の有名文人・墨客と自身の趣味に遊んだ。小学校の教育実践が全国で注目された村、地域一帯は豪邸が軒を並べ、一代集落を形成した。このような地区が県内にあったろうか。

田島弥平旧宅の世界遺産へプラスして

 この度、第3弾として、島村地区の史跡・景観写真集を計画した。周知のとおり田島弥平旧宅の世界遺産登録により様々な紹介がなされる時、二番煎じとなる憂いもあるが、別角度から敢えて挑戦することとした。


 編集委員 新井幸司・内田 務・栗原知彦・小林清一・関口吉範・髙澤良彦・田島元雄・町田敬之・細谷 武

 撮  影 髙 澤 良 彦

 写真集編纂には、献身的に写真撮影に尽力された髙澤良彦氏と、本会々員で境史談会の人たちの功績によるところ大である。心より感謝の意を表する。

2019年10月1日                      地域活性化組織「境いきいきアイ」 会長 田中 敏嗣

INDEX(索引)

① 島村沿革碑

  (新地)

現在利根川は、島村のほぼ中央を流れていますが、昔から今に至るまでに、この流れは何度も変わり、そのたびに島村の人々の生活に大きな影響を与えてきました。

その様子について忘れることがないようにと、1897(明治30)年に島村の長老が絵地図を持って今の東京大学の三島 毅 先生に頼んで記録した碑文です。

② 田島群峰の句碑

  (新地)

本名は群次郎で父は弥平の末弟の定邦です。学問の師は徳富蘇峰で群峰という雅号も蘇峰が名付けたものです。

家は島村蚕種業の代表的存在で、群次郎も業界の指導的役割を果たすと共に、戦時中は村長も務めました。群次郎は博学として知られ、歴史や漢籍について「境歴史資料」や雑誌「蚕糸の光」、「蚕糸新聞」などに多くの文書を残しています。

 俳句は友人で画家として有名な磯部草丘の誘いを受け、句会「渋柿」の同人として活躍し句集に「群峰句集」,「晩菊」があります。句碑は1975(昭和50)年11月2日に建立されました。建立者は島村の「桑子俳句会」の同人です。

1890(明治23)年~1975(昭和50)年85歳。

③ 旧島小学校の赤レンガ塊

  (新地)

昔、現在の利根川河川敷の真ん中に前島と云う島がありました。ここは島村の中心地で、神社やお寺・多くの家があり島小学校も有りました。大雨が降ると水が溢れいつも危険にさらされ田畑も削り取られて行き、これを防ぐため明治31年頃に、レンガ塀の土手を村民総出で造りました。このレンガの欠けらは、水に苦しみ水と戦った生活が忍ばれます。

④ 旧島小学校

  (新地)

島小学校は、1875(明治8)年に前島に建築された三階建てのモダンな校舎でした。その後 利根川の大改修に伴い1915(大正4)年に現在の「伊勢崎市福祉交流館しまむら」の西側に校舎を新築しました。1966(昭和41)年島中学校が境南中学校へ統合されたため旧島中学校々舎が島小学校々舎となりました。

なお、1953(平成5)年3月校舎の改築をおこないましたが、2016(平成28)年には島小学校も児童数減少のため境小学校に統合となり閉校されました。

⑤ 旧島小学校々章

  (新地)
当時本校訓導木暮武氏が、島村を代表する桑と蚕の蛾と繭とをあしらった正三角形(一辺が約3cm)の図案を採用し、東京市(現在の東京都)の保坂堂に作成を依頼し、1916(大正5)年4月に待望の帽章が出来上がりました。1940(昭和15)年6月には、小豆色の地に帽章を黄色に染め抜き、下に白字で群馬県佐波郡島村尋常高等小学校と記入された校旗が出来ました。

⑥ 田島弥平旧宅 案内所

  (新地)

世界文化遺産 田島弥平旧宅を見学する際には、「田島弥平旧宅案内所」を利用下さい。田島弥平旧宅や富岡製糸場と絹蚕業遺産群の情報やパンフレットのほか、田島弥平旧宅の解説パネル、田島弥平旧宅所蔵資料の展示や映像情報をご覧いただけます。

⑦ 養蚕新論版木(はんき)

  (新地)

養蚕新論は、1872(明治5)年 田島弥平が著した養蚕書です。田島弥兵衛・弥平父子が考案した清涼育という蚕の飼育法の普及のための実践書です。

近代養蚕法の基礎を築いたと高く評価され、全国の養蚕農家の手引書として利用されました。現在、その版木は田島家に保存されています。

(伊勢崎市指定重要文化財:昭和42年指定)

⑧ 島村蚕種業績碑

  (新地)

1872(明治5)年田島武平・弥平等によって県下最初の法人組織「島村勧業会社」を設立しヨーロッパへ輸出しましたが、1884(明治17)年解散しました。

1941(昭和16)年「島村蚕種協同組合」を結成、1980(昭和55)年に「島村蚕種株式会社」と改組、1988(昭和63)年解散するまで島村の蚕種を各方面に供給し続けました。

碑文は、島村出身の田島弥太郎によるものです。

⑨ 金井烏洲赤壁夜遊図

 (新地)(かないうじゅう せきへき やゆうず)

金井烏洲56歳の作で、代表作の一つです。これは中国、北宋の詩人・政治家であった蘇東坡が1082(元豊5)年7月陰暦16日の夜、友人と赤壁に遊び有名な「赤壁賦」を作った時の様子を水墨画にしたもので、「前赤壁」とも呼ばれています。

構図は右方に連る山々を描き、中央に舟を浮かべて3人の客があり、中天に月を配しています。つまり、仲秋の夜に舟の中で名月を鑑賞する絵です。

(伊勢崎市指定重要文化財:昭和42年指定)

⑩ 宝性寺

  (新地)

1593(文禄2)年僧明京が開山しました。明京は京都の人、宝性寺も京都智積院の直末です。

本尊阿弥陀如来は747(天平19)年5月行基の作といわれ,脇待弁天像は801(延歴20)年3月弘法大師が造ったと言い伝えられています。何れも智積院の什宝でありました。現在無住で、本庄市傍示堂の円満寺で兼住しています。

⑪ 田島弥平顕彰碑

  (新地)

父の栄誉を、碑を建立して後世に残したいという娘「たみ」の熱意により建てられたものです。撰文は川田剛、金井之恭の書によるものです。

弥平は、「清涼育」の養蚕理論をとなえ櫓は養蚕家屋を建築し、「養蚕新論」の出版や宮中ご養蚕の指導など、近代蚕種養蚕業の発展に大きな貢献をした人でした。

⑫ 田島弥平旧宅

  (新地)

通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が考案した蚕室の最大の特徴は、屋根上に見られる櫓です。櫓にある窓を開閉して蚕室の温度や湿度の上昇を防ぐものです。

弥平は、従来の温暖育に代わる清涼育を考案し、実験のために1863(文久3)年に主屋兼蚕室を建築しました。これが現存する主屋で間口十三間半(約24.3m)、奥行五間(約9m)の規模で民家としては県内最大級でした。

(国指定史跡 : 平成24年指定)(世界遺産登録:平成26年登録)

⑬ 貞明皇后行啓(ぎょうけい)記念碑

  (新地)

皇居で行われている養蚕は、1871(明治4)年から始まり、その年は田島武平が、明治5年、6年、12年には田島弥平が養蚕の世話役に選ばれました。

また、大正期には5代目弥平が、宮中ご養蚕の指導に当たりました。そのお礼に1948(昭和23)年には大正天皇の皇后だった貞明皇后が、田島弥平家を訪れました。それを記念して庭に「貞明皇后行啓記念碑」が建てられました。

⑭ 田島弥平旧宅 井戸

  (新地)

利根川の堤防が大正時代に出来るまで、島村はたびたび洪水の被害にあっていました。大事な建物や井戸を洪水から守るため、石と土を積んで作られた基壇を高くした上に造られました。この工夫は島村でよく見られます。

島村で井戸を大切にしたのは、単に人の飲み水ということだけでなく、蚕種の製造に清潔な水が必要という特殊な事情もあったのです。

⑮ 田島弥平旧宅の屋号扁額(へんがく)

  (新地)

扁額(看板)には「遠山近(えんざんきん)水村舎(すいそんしゃ)」と書かれており、弥平家蚕種業の屋号(店の名前)で。弥平の父弥兵衛に頼山陽が与えたものです。

 山陽は江戸時代後期の尊王(そんのう)攘夷(じょうい)の思想家で、弥兵衛は深く心酔しており、京都の書齋山紫水明処を訪ね、揮毫(きごう)を懇願(こんがん)したが固辞されます。再三再四の懇願に山陽も心意気に押されて手渡したと言われています。

⑯ 進成館(田島善一宅)

  (新地)

主屋は幕末に建てられあました。主屋の屋根には総櫓があります。主屋の一番の特徴は、屋根の上に作られた櫓(越屋根・天窓)です。櫓は蚕室(蚕を飼育する場所)内を換気するもので、この換気の仕組みを考えたのが田島弥平です。

  この建物は島村で一番古い建物といわれています。

⑰ 進成館 3階屋根裏

  (新地)

3階(蚕室の上部)は、東西南北を窓にして外から新鮮な空気を自由に入れて換気を図り、蚕室内を自然に近い形にしました。

田島弥平が考え出した「清涼育」のための建物は、明治時代から養蚕農家のモデルになりました。

⑱ 進成館 4階「櫓(やぐら)」内部

  (新地)

屋根の上にもう一つ屋根(櫓)を置き、換気ができるように実践した工夫の建物です。

 瓦屋根の建物では屋根裏に熱がこもってしまうため、屋根の上に暖まった空気が抜ける「櫓」を付けました。

⑲ 菅原神社

  (新地)

田島氏の氏神として天正年間山城国天満宮の分霊を移して奉祀したものです。由来島村は蚕種養蚕が盛んで、村が富んでおり村民の崇拝あつく、立派な社殿が造立されました。本殿は一間社流破風造、拝殿も流破風向拝付、祭神は菅原道真命。

春は4月第1日曜日及び秋は 11月3日に祭礼が行われています。

⑳ 田島武平の墓碑

  (新地)

田島武平は1833(天保4)年生れ、保寿、通称武平、号を九如といいます。渋沢栄一とは7才違いで幼い時から親交があり、後に渋沢栄一の指導を受けて1872(明治5)年島村勧業会社を設立し、その社長となりました。初めて明治4年に宮中で養蚕が行われることとなった際に武平が世話役を務めました。

また、蚕種のイタリアでの直接販売にも従事しました。武平は政治の人でもあり、若くして島村戸長、県知事を補う郷長を務め、転じて県議会議員となりました。

こうした武平の業績を記した渋沢栄一の撰文による「田島武平君墓表」が田島家墓地内にあります。

㉑ 田島氏移居之記碑

  (新地)

この碑は1871(明治4)年に、田島家大本家13代信秀によって田島氏の歴史を子孫に伝えるために建てられ、今は元田島医院の邸内に建っています。

碑面は題額を田島氏に縁をもつ男爵新田俊純、文を幕末の福井藩主松平慶永、書を島村出身で明治三筆の一人といわれた金井之恭と当代一流の人達の手に成るものです。

㉒ 野面積(のづらづみ)の石垣

  (新地)

利根川の堤防が大正時代に出来るまで、島村はたびたび洪水の被害にあっていました。

大事な建物を洪水から守るため、河原の石を5尺(1m50cm)あまり積み上げた石垣の上に建てられました。

これを野面積の石垣と言い、この工夫は島村でよく見られます。

㉓ 對青盧顕微鏡室(田島達行宅)

  (新地)(たいせいろ けんびきょうしつ)

對青盧は、1866(慶応2)年に建てられ、主屋の屋根には総櫓があり、主屋2階の北東角に顕微鏡室があります。

1850年代、ヨーロッパの養蚕国イタリア・フランス両国では、微粒子病が大流行したため、養蚕が全滅するほどの被害を受けました。日本政府は、日本でこのようなことが起きないように国内販売の蚕種の病菌検査を義務付けました。

㉔ 金井烏洲と一族の墓

   (新地)

金井烏洲は江戸後期の南画家で、書や詩文にも長じました。出身は島村で墓地も同地にあり、墓地には烏洲をはじめ父の萬戸(俳人)、兄の沙邨(詩人)、弟の研香(南画家)、ら金井一族の墓があります。

墓域には題額を東久邇宮妃殿下、撰文・書を渋沢栄一が当たり、1929(昭和4)年に造立した金井烏洲副碑もあります。  

(群馬県指定史跡:昭和48年指定)

㉕ 田島梅陵の墓碑

  (新地)

名は弥兵衛といい、有名な弥平の父です。家は代々養蚕を業とした豪農でしたが、更に養蚕の先進地奥州の米沢地方の飼育法と蚕種製造法を見聞して取り入れて大成功を収めたのです。

そしてこれを島村に定着させて、やがて有名になる島村の蚕種養蚕業の基礎を築いたのです。

梅陵は唯の実業家ではなく文人でもありました。京都にいた頼山陽との交流は有名で、当家には先に揚げた扁額や「十二名媛」の名筆がのこされています。

1796(寛政8)年~1866(慶応2)年 70歳。

㉖ 金井家の芭蕉句碑

  (新野新田)

金井烏洲の父、俳人萬戸が1825(文政8)年に邸内に建てたものです。萬戸は大いに竹を好んで自分も華竹庵と名のりました。額面は有名な画家酒井抱一の書で名碑とされています。 「降らずとも 竹うゆる日は みのと笠」と歌われています。「竹うゆる日」は旧暦の5月3日を指し、この日に竹を植えると必ず活着するといういい伝えがありました。今でいえば梅雨時です。俳句の意味は「今は梅雨時ですから、例え降っていなくてもお出かけの際は、みのと笠をお忘れなく」となります。

㉗ 宋厳寺

  (新野新田)

1662(寛文2)年3月僧精遍が前島の地に開山しました。以来今日まで、深谷市の横瀬華蔵寺末寺で、現今無住のため同寺の兼住となっています。

 1873(明治6)年8月8日開校した島村小学校は、校舎が1875(明治8)年3月新築されるまで、前島の宗厳寺で授業が行われました。

㉘ 島村キリスト教会

  (新野新田)

島村にキリスト教が伝わったのは、村の蚕種業者がイタリア・フランスへ蚕種を輸出するため横浜へ赴き、その任に当たった栗原茂平が米人牧師に教えを受け、帰村し伝道したのが始まりです。翌1887(明治20)年には村の有力者でイタリアでキリスト教に関心を高めてきた田島善平が初めての教会堂を建てたのでした。現在の教会は1897(明治30)年に現在の位置に新築されたものです。

(国登録有形文化財:平成20年指定)

㉙ 島村キリスト教会 礼拝堂

  (新野新田)

1897(明治30)年に建設された礼拝堂内部で、床と天井は当時のままです。1877(明治10)年ごろ蚕種販売のため、横浜に行った栗原茂平らが米人宣教師バラの説教を聞き感銘し、1887(明治20)年に島村の蚕種業者らで教会を設立しました。島村のキリスト教と蚕種業は大きな関係をもっているのです。

㉚ 島村の板倉

  (新野新田)

四方、板囲いの穀物倉庫で栗原嘉彦家にあり、板倉の内壁右面に「上野国佐位郡島村/栗原清右衛門/三ツ木屋 大工 伊八/久保 同 文詞郎」、また左面には「天明弐壬寅極月吉日」の墨書銘があり、建造は1782(天明2)年、造りは落とし羽目板式で高床造りです。

大きさは正面九尺(2.7m)・奥行き六尺(1.8m)、内部は五室に仕切られ最大90俵(約5,400㎏)の穀物を貯蔵できます。

(伊勢崎市指定重要文化財:昭和42年指定)

㉛ 町田家の長屋門

  (立作)

島村に存在する唯一の長屋門です。1887(明治20)年の築で、町田家も有力な養蚕業者の一角をなす家でありました。

長屋門は間口9間、奥行4間の重厚な構えを残しており、当時の繁栄と勢威を今に伝えています。

㉜ 島村(町田)の伊三郎墓碑

   (立作)

伊三郎は吉左衛門を祖とする五代目の当主でした。島村立作の人で、1790(寛政2)年に生まれました。家は舟問屋でしたが自ら無宿となりました。上州において早い時期に縄張りをなした親分で、関八州取締出役の道案内を勤めていました。

伊三郎は生涯一度も人をあやめたり、非道の行動はなかったといわれていますが国定忠治の恨みをかい、闇討ちに合い落命しました。

1790(寛政2)年~1834(天保5)年、45歳。

㉝ 航行中の渡船

  (北向)

江戸中期に始まり200年の歴史があり、1952(昭和27)年県道新地・伊勢崎線の渡船となりましたが、2012(平成24)年に市に移管され市道となりました。

秋には川辺に広がるススキが見事です。また、春の桜堤は河津桜・ソメイヨシノの新名所です。

毎年五月の第三日曜日には「渡船フェスタ」が開催されています。

㉞ 島村8号艇

  (北向)

現在の島村渡船は船外機による動力運転によって運航されていますが、元々は船頭が4~5mもの長さの竹竿を用いて、舟を漕いでいたものです。

春 東風の強い日などは竿の代わりに、帆を揚げ櫂を用いて運航することもありましたが、それは例外でした。

1996(平成18)年に島村9号艇が進水されたため、この8号艇は、その竹竿時代の最後の船です。大きさは長さ8m、幅1.7mです。

㉟ 島村北公園

  (島小学校分校跡地)(北向)

 島村小学校は利根川の南、新地々区にあったので北部に住む学童は渡船を利用し通学しました。 

これに対し、保護者から学童の安全通学を求める声が挙がり、1948(昭和23)年10月、この地に分校が新説され、北部学童の通学が始まりました。

分校は1972(昭和47)年3月廃校となり、学童は境小学校へ通学となりました。また、跡地は公園となり春の桜は見事です。

㊱ 諏訪神社

  (北向)

歴史は古く、天正年間(1573~1591)武田の遺臣栗原太郎左衛門が小此木村の一部であった島村を分離独立した時、信州大明神の分霊を鎮座したのが始まりといわれています。

主祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のみこと)。社殿は明治期まで前島地区にありました。利根川改修により前島が廃村となるにおよび、1915(大正4)年に現在地に移りました。 

㊲ 大杉大明神石碑

  (北向)

諏訪神社社殿裏にあり、石塔の竿石部分に誌されています。大杉大明神は水神として崇められ、利根川を往来する船頭によって水難を避けるために建立されたものです。それ故、この様な碑は利根川沿線各地にありますが、島村を限界に上流には存在しないといいます。

なお、この碑には他の三面に秋葉大権現(火伏神)、金毘羅大権現(航海神)、石尊大権現(雨神)の名が刻まれており珍しいものといわれています。

㊳ 小舩(こぶね)神社

  (西島前河原)

1817(文化14)年の頃、前河原村所有の船は2艘でしたが、後に個人の持ち船が許され、船頭家業で生計をたてる者が増えました。小舩神社はこうした人達の守り神として1847(弘化4)年に奉紀された石宮です。

破風に金毘羅様と同じ天狗の扇が刻まれており、川沿いの地域ならではの珍しい神社です。

㊴ 高札(こうさつ)

  (西島前河原)

住民に対して、その時々の「決めごと」を知らせるために高く掲げた「立て札」で、多くは道の辻々に設置されました。前河原村は地域が小さかったためか、新井新右衛門の屋敷内に置かれていました。1682(天和2)年の内容は「覚」として禁猟区での猟をしないこと。

1716(享保元)年の内容は「定」として、キリスト教の動向を報告することと記されてありました。

㊵ 雷電神社

  (西島前河原)

かつて前河原村は今の利根川河川敷の字飯田にあり、神社も村の鎮守社としてそこにありました。1914(大正3)年に始まる河川の大改修に際し、村は現在地に神社も字上村に移りました。

御神体が伊与久や板倉の雷電神社と同じ木で刻まれているなどの言い伝えがあります。祭りの幟旗は、亀田鵬齋が書いたものです。

㊶ 前川原沿革碑

  (西島前河原)

碑の建立は、1936(昭和11)年3月雷電神社の境内に住民一同で建てました。碑文には1701(元禄14)年当時からの歴史が刻まれています。耕地面積や石高、利根川の中州に位置したことによる度重なる洪水の悲劇、幕府の直轄地で所管が岩鼻県や熊谷県に属した一時期があったこと。1882(明治15)年島村と合併、1913(大正3)利根川大改修に伴い中州から現在地に村が移ったことなど証してあります。

㊷ 松永貞徳句碑

  (下蓮)

1826(文政9)年、伊勢崎藩士石川三十郎(俳名幽奇)が旧前河原村の邸内に貞徳(芭蕉の以前の名俳)の句碑「皆人のひる寝のたねや秋の月」を建て盛大な披露宴が開かれました。この日、東毛の句をたしなむ人々百余名がお祝いに参席したといわれています。俳碑は、川欠で失われたといわれていましたが、後に下蓮町に現存していることがわかりました。

㊸ 前川原雅游図  

  (西島前河原)

松永貞徳の句碑を建てた石川幽奇は、友人として披露宴に金井烏洲を招きました。烏洲はその時の様子を「前川原雅游図」として大幅におさめ今に伝えています。

画面手前の木の奥に句碑が描かれ堤防の先に小舟も見え、地域の人々にとって往時を偲ばせる唯一の情景です。

上部の書は「仲秋游前川原記」と題し、漂麦園木親(鈴木広川撰)、尚古堂谷謙の書です。

撮影地まっぷ

(付図)蚕種養蚕業と文化の発展を誇る ~島村地区~






『令和元年度「伊勢崎市協働まちづくり事業」補助事業』


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