旧日光例幣使道
例幣使といえば、徳川幕府の威光を誇示するために家康の神霊に幣帛を捧げる勅使が派遣されたその使いのことで、武家社会となり生活に困窮していた公家たちは競って例幣使を志願しました。島崎藤村の小説「夜明け前」でも紹介されているとおり、例幣使は沿道の宿場で無体な歓待をさせたり短冊を高値で売り付けたり、時には籠をゆすって金品を強要したり乱暴狼藉をはたらいたりするうえに、沿道の人々は人馬の使役に使われるなど迷惑な存在で煙たがられていたようです。

「日光例幣使道図」出典『群馬県史』通史編5

「例幣使行列図」出典『日光例幣使道境宿織間本陣』
街道周辺の31枚の写真
ここに掲げた31枚の写真は、「竹石の渡し跡」から「三ツ木城跡(真福寺)」まで旧日光例幣使道に沿って、史跡・景観・建物を撮影し、数ある候補の中から編集スタッフが厳選したものです。
伊勢崎方面から武士橋を渡って、すぐ先の信号を左折し3メートル先を右折すると旧日光例幣使道になります。当時の面影は殆んど残ってはいませんが、わずかに細い通りの両サイドに面影を偲ぶことができます。伊勢崎柴宿から約4キロメートルの位置に一本松稲荷・八海山・御嶽山が同じ場所にあるのには驚きました。八海山は越後の、御嶽山は木曽の修験者の霊場を分祀したものだそうです。しばらく行くと県道142号線(旧国道354号線)に着き、出口に日光例幣使道の標柱があります。全長約600メートルの道程ですが、休日には散策するグループを見ることができます。
皆さんも一度訪ねてみて下さい、他にも見るべきものが沢山あります。暇を見て31箇所を訪ねてみると新しい発見があり、見どころがあり、なかなか見捨てたものではないと思われるかもしれません。
写真撮影は髙澤良彦氏が担当し、展示会は千葉商店様のご厚意でミニギャラリー「ねこでこ」で開催しました。なお、境管内の小中学校でも回覧展を行いました。
編集委員 新井幸司・井上志郎・内田 務・髙澤良彦・堀田浩道
撮 影 髙 澤 良 彦 (写真等の番号①⑪⑭⑯⑳を除く)
2017年10月1日 地域活性化組織「境いきいきアイ」 会長 田中 敏嗣
INDEX(索引)
① 明治の終り頃の「竹石(たけいし)の渡し」
② 竹石の渡し跡(全景)
③竹石の渡し跡 ‐案内標柱‐
④ 旧日光例幣使道 ‐案内標識‐
⑤ 旧日光例幣使道 ‐東岸入口‐
⑥ 法光寺
⑦ 勝山神社 天井画
⑧ 一本松稲荷
⑨ 旧剛志村役場
⑩ 旧群馬県蚕業取締所 境支所
⑪ 旧群馬県蚕業取締所 内部
⑫ 旧日光例幣使道‐萩原口‐
⑬ 諏訪神社の道標
⑭ 旧日光例幣使道境宿
⑮ 織間本陣跡
⑯ 旧織間本陣
⑰ 織間本陣 中門
⑱ 飯島本陣跡 ‐標柱‐
⑲ 境赤レンガ倉庫
⑳ 旧境町公民館
㉑ 瑳珂比神社
㉒ 買場通り
㉓ 長光寺本堂
㉔ 長光寺 村上随憲 墓碑
㉕ 長光寺 芭蕉句碑
㉖ 愛染院
㉗ 愛染院 二十二夜塔
㉘ 商家 斎藤家
㉙ 旧日光例幣使道境宿 ‐標柱‐
㉚ 東町道しるべ
㉛ 東町稲荷神社 芭蕉句碑
㉜ 女塚薬師湯道しるべ
㉝ 女塚稲荷
㉞ 法楽寺 開山堂
㉟ 三ツ木祭り屋台
㊱ 真福寺(三ツ木城址)
「日光例幣使道」の由来
写真撮影地まっぷ
本文
① 明治の終り頃の「竹石(たけいし)の渡し」
Winkworsh A.Gay画(関東学園大学蔵)

この絵は、広い川の岸につながれた数隻の舟、中央に人を下して止まっている一隻の舟、手前には藁か葦を葺いた仮小屋、遠く噴煙をたなびかせた浅間山が、柔らかく透明な筆致で描かれています。そして右手にこんもりした小山は御嶽山。これはまさしく当時の例幣使道(現県道142号線)が通っていた広瀬川の「竹石の渡し」の原風景であります。
画中のちょんまげらしい男の子、日傘を差した人などから、絵は明治の終り頃と推察され、作者はアメリカ人です。(注2)
② 竹石の渡し跡(全景)

竹石の渡し跡は、写真手前となります、上流の対岸に法光寺、中央左には御嶽山を望み、遠く浅間山を望むことができます。また「竹石」という地名は戦国時代の末期まで使われていましたが、この地に土着した武士集団によって「武士村」と称するようになり、慶長のはじめに上・下武士村となりました。(注3)
③竹石の渡し跡 ‐案内標柱‐

現在の県道142号線(旧国道354号線)が広瀬川に架かる武士橋付近に「竹石の渡し」がありました。
当時は、近村や旅人に利用されていましたが、4月の徳川家康忌には、例幣使や大名の大通行があり、地元の負担も大変であったといわれています。
㉙ 旧日光例幣使道境宿 ‐標柱‐

1643(寛永20)年大通りが通じて町並みができ、例幣使の通行が始まると間の宿となり、1863(文久3)年問屋場として認められ、二・七の六斎市が盛んとなり、絹糸・織物の集散が多く経済的に豊かになり文芸が栄えました。
㉚ 東町道しるべ

この道しるべは、1787(天明7)年11月、西国・四国・秩父・坂東供養塔として地元の有志により奉納されました。芝付には東西南北を刻んだ台石、その上に四角の本塔があります。南向きに、向かって右側に「右 江戸・なかせ(中瀬)、左 日光・きさき(木崎)道」、正面(北向)「右 古里やう(五料)・以せさき(伊勢崎)」、正面向かって左「天明七年十一月吉日、此方 せ良田(世良田)・たてはやし(館林)道」と刻まれています。江戸期に建てられた、境町で最も立派な道しるべです。
㉟ 三ツ木祭り屋台

境町駅通りと旧日光例幣使道(県道142号線)沿いを会場に開催される「境ふるさとまつり」は、日が暮れて辺りが暗くなってくると、境町駅通りの交差点に各地区から9台の屋台・山車が集り、祭り囃子のたたき合いが披露され会場を盛り上げます。三ツ木・栄・女塚地区の祭礼囃子は市指定重要無形民俗文化財です。
なお、三ツ木祭り屋台の建造は1875(明治8)年で、宮大工は旧世良田村の長谷川某です。
㊱ 真福寺(三ツ木城址)

新義真言宗、上矢島の徳蔵寺が兼務しています。開山は天正年中(1573~1592)といわれ本尊は虚空蔵菩薩です。現在の本堂は1960(昭和35)年に再建されました。
真福寺は、戦国時代の三ツ木城の跡で、境内にある宝塔は金山城の由良氏に仕えた根岸肥後守繁道の供養塔とされています。
これより、日光例幣使道は「木崎宿」へ向かいます。
「日光例幣使道」の由来
伊勢崎市と玉村町を東西に横断する県道142号線(旧国道354号線)は、江戸時代に「日光例幣使道」といわれ、徳川家康をまつる日光東照宮の春の大祭に、京都の朝廷が幣帛(贈り物)を奉納するために派遣された使者である「日光例幣使」が通るために整備された道です。
倉賀野(高崎市)から楡木(栃木県鹿沼市)までの間に13の宿場がおかれていました。例幣使の一行は50~60人で構成され、毎年4月1日に京都を出発し、中山道、例幣使道を通って4月15日に日光に到着しました。
帰路は、江戸に寄り東海道を通って京都に戻りました。全行程29泊30日で、1日40km歩いたことになります。例幣使は1647(正保4)年から1867(慶応3)年の221年間、一度も中断することなく派遣されました。(注1)
引 用 文 献 (写真を含む)
注1:伊勢崎市発行のパンフレット
注2:境史談会発行「境歴史資料」
注3:しのき弘明著「境風土記」
注4、6、8:境町発行「目で見る境町の歩み」
注5:根岸光益著「日光例幣使道と下武士史跡」
注7:篠木弘明著「日光例幣使道
境町織間本陣」