采女地区

-- 歴史をいろどる、文化・文人の郷 ーー

 史実を辿ると、伊与久(五十久)の歴史は6百年前に始まり、雷電神社の創始は鎌倉時代の建保3年、木島の春日神社は大和の国春日神社の分霊を奉じて奈良朝天平宝字5年造営、大國神社が祀られたのは垂仁天皇の御代、この時すでに付近に淵瀬があり人が居住していた。上淵名の二子山古墳は古墳時代、東新井の神明宮は平安朝時代、淵名は淵名大夫兼行が淵名を再開発し、仁和寺に寄進したとことにより淵名の庄となった。飛鳥時代の国家事業の東山道は新田大町から上淵名を通り国指定史跡十三宝塚遺跡北側までの8kmを通過していたと考えられる。

 そもそも、采女とは孝徳天皇の大化2年、宮廷の官女として天皇に仕え食事のことを司る役職として制定され、16歳以上で容姿端麗な者を充てるよう定められていた。この職に佐位郡淵名郷から出仕した采女がいると言われている。采女村命名の由来は、明治12年伊与久・木島・百々の3ヶ村聯合、下淵名・上淵名・東新井の3村聯合に続き、22年町村制実施の結果、2聯合村を合せて、かつて采女の職に奉じた人物を輩出した由緒ある土地柄であることを、故実に通じていた俳人石井常翠翁の提案によって名付られた。

 編集委員 新井幸司・井上志郎・内田 務・小林清一・髙澤良彦・高田勇毅・細谷 武・堀田浩道・真下高幸

 撮  影 髙 澤 良 彦

 写真集編纂には、献身的に写真撮影に尽力された髙澤良彦氏と、本会々員で境史談会の人たちの功績によるところ大である。心より感謝の意を表する。

2018年10月1日                           地域活性化組織「境いきいきアイ」 会長 田中 敏嗣

INDEX(索引)

① 十三宝塚遺跡 古代寺院跡  ② 雷電神社  ③ 雷電神社 石室  ④ 伊与久の森  ⑤ 蚕影(こかげ)様 ‐養蚕神社‐  ⑥ 須田定俊宅 ‐石造物‐  ⑦ 須田栄吉宅 ‐五輪塔‐  ⑧ 石井半湖の墓碑  ⑨ 石井常翠(じょうすい)の句碑  ⑩ 若宮神社  ⑪ 斎藤武八郎顕彰碑  ⑫ 新井家 石臼墓石  ⑬ 弥八の柳  ⑭ 龍昌院の宇賀神  ⑮五十久弾正(いよくだんじょう)の墓塔  ⑯高山彦九郎の実妹きんの墓  ⑰ 吉沢一鳥の墓碑  ⑱ 平田蘭渓(らんけい)の墓碑  ⑲ 阿弥陀堂  ⑳ 下居(しもい)碑  ㉑ 粕川地蔵尊  ㉒ 宮崎有敬旧宅  ㉓ 郷学五惇堂(ごうがくごじゅんどう)  ㉔ 高井家 芭蕉句碑  ㉕ 高井半湖(はんこ)の墓碑  ㉖ 高井栄吉の墓石  ㉗ 登煙(とけむり)伝次郎の碑  ㉘ 大谷国蔵頌徳(しょうとく)碑  ㉙ 大師堂内部  ㉚ 高橋巍堂(ぎどう)の墓碑  ㉛ 勤王志士 高橋亘‐摩利支天塔‐  ㉜ 春日神社  ㉝ 子安(こやす)地蔵  ㉞ 弥勒寺(みろくじ)父子の墓  ㉟ 大国神社  ㊱ 大国神社の石憧(せきどう)  ㊲ 御手洗(みたらし)神社跡地  ㊳ 下淵名の獅子舞  ㊴ 淵名の東沼  ㊵ 石原有物の句碑社  ㊶ 淵名神社  ㊷ 指定東山道駅路  ㊸ 神明宮  ㊹ 双体道祖神  ㊺ 東新井の獅子舞  ㊻ 七母女天宮(しちぼにょてんぐう) 
撮影地まっぷ 

本文

① 十三宝塚遺跡 古代寺院跡

  (伊与久一区)

奈良時代から平安時代にかけて佐位郡が管理した寺院。南側は大溝、東・北・西側は二重の棚列(回廊)で方形に囲まれた遺跡です。区画内には三ヶ所の基壇(お堂の基礎)と土製仏像、香炉、硯などや「佐」「淵」「雀」「反」など佐位郡の郷名が刻まれた瓦が出土しています。また、上野国分寺創建時と共通した瓦もみられます。

(国指定史跡:昭和63年指定)

② 雷電神社

  (伊与久一区)

1215(建保3)年、赤石城主三浦之介義澄が山城国加茂大明神を勧請したと伝えられています。主祭神は大雷(おおのいかずちの)命(みこと)で明治維新後は村の鎮守様として1871(明治4)年村社に、1930(昭和5)年郷社に昇格しました。

(伊勢崎市景観重要建造物:平成27年指定)

③ 雷電神社 石室

  (伊与久一区)

6世紀の円墳で社殿の下に石室が残されています。

石室は長さ4.7m、幅2.3mで羡(せん)道(どう)部、前室、玄室の3室に分かれ榛名山の噴火でもたらされた角閃(かくせん)石(せき)安山岩(あんざんがん)で構築されています。

(伊勢崎市指定史跡:昭和52年指定)

④ 伊与久の森

  (伊与久一区)

「群馬自然の森100選」に認定されました。境内には杉・銀杏・白樫・松・椎・無患子(むくろじ)などの樹木があり市民の憩いの森になっています。無患子は社殿の真北、東、北東(丑寅)方向の三ヶ所に植樹され実は羽根突きの羽根玉として、また雷電神社では参拝者に無患子の実を「心願成就」の御守りとして無償で配布しています。

(群馬県・朝日新聞社共催「群馬の自然100選」昭和63年認定)

⑤ 蚕影(こかげ)様 ‐養蚕神社‐

  (伊与久一区)

御神体は馬に乗った神様と言われ養蚕の神様です。1811(文化8)年、深町重右衛門修(しゅう)胤(いん)が発起人となり石宮を建てました。毎年1月25日の大祭に「馬のわらじ」を持ち帰り豊蚕になると「馬のわらじ」を倍にして返納しました。

 最近では養蚕農家も少なくなり信仰も薄れてきました。

⑥ 須田定俊宅 ‐石造物‐

  (伊与久一区)

薬師様・庚申塔・馬頭観音・二十三夜待・子待(ねまち)塔等があります。二十二夜待は伊与久では女性たちが宿に集まり、食事をとりながら月の出を待ち、月を拝んでから解散したそうです。

また、子待講は昔百姓が大黒様を祀った行事で田の神様として五穀豊穣を祈りました。

⑦ 須田栄吉宅 ‐五輪塔‐ 

  (伊与久一区)

密教の五大思想を基にして造られた日本独自の石塔である五輪塔です。

地域の開発と共に消え、現存する物は寺社に限られていますが、伊与久地区の集落の始まりといわれる柴崎では五輪塔の2基が屋敷神と共に大切に祀られています。

⑧ 石井半湖の墓碑

  (伊与久一区)

石井半湖は内海半湖に師事した俳諧の向松庵系の俳匠です。江戸から明治まで半湖を称した俳人は三人いましたが、一世揚州庵半湖の高弟で二世を継ぎました。松竜軒と号し、辞世句に「木も知らぬ 風の身にしむ 夜明けかな」があります。

1823(文政6)年~1885(明治18)年、62歳。

⑨ 石井常翠(じょうすい)の句碑

  (伊与久一区)

俳人石井常翠の父は半湖で、明治初期に活躍した俳人で、碑は常翠が没した翌年の1924(大正13)年に門弟らによって建てられ、辞世句に「敷島の 道案内らし 初胡蝶」とあります。

また、常翠は1889(明治22)年町村制施行に伴い伊与久、木島、百々、上淵名、下淵名、東新井の合併に際し「采女村」と命名したと伝えられています。 

1854(安政元)年~1923(大正12)年、70歳。

⑩ 若宮神社

  (伊与久二区)

当初は平田家の氏神様(屋敷稲荷)として祀られていました。ある年に屋敷稲荷を伊与久龍昌院にある飯福神社に合祀しました。

その後飯福神社は采女小学校に奉安殿として設置され、第二次世界大戦後に奉安殿は伊与久二区の人達の手によって若宮稲荷として現在の地に移され、今でも氏子の人達が毎年4月15日に大祭を行っています。 

⑪ 斎藤武八郎顕彰碑

  (伊与久二区)

気楽流古武道の発祥流派は、戦国時代末期に加賀藩前田利家の家人・戸田越後守信正が戸田流を創始し、後に気楽流と改め14代目宗家を継ぎ今日に至っており、正しくは「気楽流柔術」と言います。 

なお、伊与久雷電神社に名工弥勒寺音八作の斎藤武八郎奉納額が拝殿北側にあります。

1794(寛政6)年~1881(明治11)年、88歳。

⑫ 新井家 石臼墓石

  (伊与久二区)

粕川沿いにあった水車小屋で使われていた石臼を墓石としたものです。水車を動力として石臼を回し米や麦を搗き、精米を業とした水車小屋が粕川沿いに多くありました。

 なお、この石臼の墓石は県内でも珍しく注目されています。

⑬ 弥八の柳

  (伊与久二区)

1857(安政4)年、新井弥八郎の徳を偲んで村人が植えたものです。新井弥八郎が私財を投入し大勢の農民を指導し貧農救済を兼ねて沼を修理し、困窮沼の改修や拡張を続け農民を救いました。

 また、工業団地造成の時、切りたおすことなく、現在道の真ん中にあり伊与久沼を見守っています。

⑭ 龍昌院の宇賀神

  (伊与久二区)

龍昌院の裏山に宇賀神の石塔があります。正面に三匹の蛇がとぐろを巻き、頭を高く持ち上げた姿で刻まれています。

 宇賀神は穀物神・福徳神・財施神として中世の頃より民間信仰として栄えて来ました。また、龍の化身とも言われる弁財天と結びついて弁財天の頭部に蛇神が乗っているのもあります。

⑮五十久弾正(いよくだんじょう)の墓塔

  (伊与久二区)

龍昌院の東側に伊与久氏累代の墓地の中央に宝筺印塔「五十久弾正の墓」があります。

関重巍の伊勢崎風土記に、「天正前後に五十久弾正吉重という者来たりてここに住みき」とあり、墓塔の年号とは合わないが代々五十久氏はこの地に住んでいました。

⑯高山彦九郎の実妹きんの墓

  (伊与久二区)

伊勢崎藩士伊与久伴蔵の妻です。夫である伴蔵は伊勢崎藩家老とともに浅間焼けのさい救済活動に従事しました。彦九郎も妹が嫁いでいる伊与久の地を度々訪ねて来ただろう。

なお、伴蔵は伊与久雷電神社に1811(文化8)年に手水石磐を奉納しています。

⑰ 吉沢一鳥の墓碑

  (伊与久二区)

吉沢糟渓、儒家、俳名は一鳥と呼ばれ伊与久の旧家の生まれで、師は保泉の鈴木広川です。

自邸に桑(そう)麻(ま)堂の私塾を開き、郷学五惇堂の頭取として後進の指導にあたりました。

なお、1857(安政4)年郷学五惇堂が焼失した後も子弟の勉学を中断させることもなく続けました。 

1801(享保元)年~1876(明治9)年、76歳。

⑱ 平田蘭渓(らんけい)の墓碑

  (伊与久二区)

南画家で雷電神社に大開帖錦絵六図があります。

若年より画道に親しみ江戸に遊学、帰郷して晩年に至るまで常に東京を往来しており、

伊与久村では細谷松堂と共に絵画の名家といわれました。

1829(文政12)年~1906(明治39)年、77歳。 

⑲ 阿弥陀堂

   (伊与久三区)

堂内に安置されている石仏・阿弥陀像の背面に1676(貞享3)年と刻まれています。

阿弥陀堂の祭りは約300年間続く夜祭りで、お盆明けの翌日から阿弥陀様の七晩灯篭と呼ばれ七日七晩続きます。灯篭には子ども達が絵を描き奉納されます。

⑳ 下居(しもい)碑

   (伊与久三区)

高井環が同志らと語らい下居(現新地)の開墾に努力し、不毛の原野の開拓に成功し下居碑を建立しました。

伊勢崎藩の老臣長尾景範にその由来碑文をもらい環が自書し、酒井培堂の題額を刻んで1858(安政5)年に建碑しました。

 高井 環 1770(明和7)年~1862(文久2)年、93歳。

㉑ 粕川地蔵尊

  (伊与久三区)

地蔵尊の背中に「1724(享保9)年8月 伊与久村中井」と刻されてあり、隣には、かつて篠塚稲荷がありました。

改修前の粕川は、地蔵尊の前を流れ近くに石橋が架けられていました。

また、現在も信仰が厚く、毎年頭巾と前掛けが奉納されています。

㉒ 宮崎有敬旧宅

  (伊与久三区)

1832(天保3)年伊与久に生まれました。郷学五惇堂の創立者宮崎有成の六男で家業の農業の傍ら養蚕蚕種の改良に努め、織物会社を起こしました。また、農事試験場は有敬が中心となり設立し、後に県に移管したものです。

1879(明治12)年始めて県議会が開かれ、初代県議会議長に任じられました。

1832(天保3)年~1895(明治28)年、64歳。

㉓ 郷学五惇堂(ごうがくごじゅんどう)

  (伊与久三区)

郷学五惇堂は1803(享和3)年に、宮崎有成ら8人により上州で最も早く開設された民間の学校で、漢学の初歩と日常の心得などを教えました。生徒は10歳から20歳までで10年間が学習年限で主に農閑期に勉強をしました。1857(安政4)年の大火事により類焼した後は寺院・民家で学業が行われ明治初年の学制頒布まで続けられました。 

(伊勢崎市指定史跡:昭和35年指定)

㉔ 高井家 芭蕉句碑

  (伊与久三区)

高井半湖が1892(明治25)年、邸内に建立した芭蕉の句碑に「ほうらいに 聞かばや伊勢の初たより」が刻まれており、半湖は生涯二基の句碑を建てました。もう一基は境上武士の能満寺境内に「無き人の 記念(かたみ)も今や 土用干」の俳句であります。しかし芭蕉の原句の中七は「小袖も今や」でありました。

㉕ 高井半湖(はんこ)の墓碑

  (伊与久三区)

伊勢崎の羽鳥半湖の門下、俳号揚州庵と名乗りました。揚州庵は高井家の墓地に墓碑があり「うぐいすや 老いをかくごで 山ごもり」の辞世句が刻されています。

1844(弘化4)年~1918(大正7)年、72歳。

㉖ 高井栄吉の墓石

   (伊与久三区)

高井半湖の辞世句碑と、同じ場所に石臼を組み上げた高井栄吉の墓があります。11歳で江戸に出て建具職を修行して郷に帰ったが、当時精米を行う者がなく精米業を思い立ち、村内に流れる粕川に大きな水車小屋を設けたが、年に数度の大水でそのたびに預かった米麦を避難させ経営は苦しかったそうです。墓石の銘文は、有名な画家松本宏洞であります。

㉗ 登煙(とけむり)伝次郎の碑

  (木島)

相撲は古墳時代から神事として伝わって来ましたが、明治の初めの頃に断髪令や裸体禁止令の影響を受けて相撲廃止論が起こりました。明治天皇の天覧相撲により相撲廃止論は見直され現代の相撲につながります。

 日本相撲協会の前進の東京相撲で、大関格の力士であった登煙(本姓高木)伝次郎は故郷に帰り田舎相撲を広めました。

 1876(明治9)年~1941(昭和16)年、66歳。

㉘ 大谷国蔵頌徳(しょうとく)碑

  (木島)

教育者、幼い頃から才知に優れ市内華蔵寺の住職に漢学を学び新井雀里の私塾に入り漢詩、漢文を学び木島に「三余義塾」を開きました。

1864(元治元)年~1912(大正元)年、49歳。

㉙ 大師堂内部

  (木島)

大師堂内には二体の弘法大師が祀ってありますが、以前堂内には真珠庵と刻銘された釈迦誕生仏も祀られていましたが今はありません。

高橋巍堂(ぎどう)の墓碑

  (木島)

1803(享和3)年木島の農家に生まれ、邸内に私塾を設け子弟に経史や書道を教えました。ただ学問だけでなく幕府の封建的政策を批判し革新前衛的な思想も教えていたようで、この思想が長子亘にも影響を与えたようです。

 1803(享和3)年~1892(明治25)年、89歳。

㉛ 勤王志士 高橋亘‐摩利支天塔‐

  (木島)

教育家高橋巍堂の長子に生まれ幕末期の革新家で、倒幕のために挙兵した野州出流山で夜襲にあい、囲みを破って逃走したが途中伏兵に合い、囚われて斬首されてしまいました。

魔利支天は武士の守護神でした。

1825(文政8)年~1867(慶応3)年、42歳。

春日神社

  (木島)

733(天平5)年藤原宿禰が上野国司となり、下向する際に大和国の春日神社の分霊を、木島の石塚上に社殿を造営し鎮祭したと伝えられています。主祭神は大物主命。

㉝ 子安(こやす)地蔵

  (木島)

1797(寛政9)年、村中の者によって建てられたもので、当時やむをえず行われていた、子おろし・間引きの犠牲者を供養するためのものと思われます。

弥勒寺(みろくじ)父子の墓

  (下淵名)

江戸時代末期から明治初年にかけて活躍した彫工弥勒寺親子が残した彫刻は巧みな作風を今に伝えています。

特に境平塚の赤城神社本殿や笠間市の稲荷神社本殿(国指定史跡)は見事なものです。

音次郎の墓はその弟子たちにより建立されたもので、その子音八は宮中大工として皇居東宮の造営にあたりました。  

(伊勢崎市指定史跡:平成元年指定)

㉟ 大国神社

  (下淵名)

平安時代に編纂された書物「延喜式神名帳」に上野十二社の一つとして大国神社が記載されています。また、「上野国神名帳」にも従一位大国神社とあります。

現在の社殿は1804(文化元)年弥勒寺音次郎が建てられたものです。

神社の宝物として古写本「延喜式」全五十巻、「日本名蹟図誌」上野之部四巻があります。

大国神社の石憧(せきどう)

  (下淵名)

石憧は仏教の輪廻思想を具現したもので、輪廻車を回して幸せや極楽往生を願いました。

この石憧は大国神社の北にある御手洗神社跡から出土、1490(延徳2)年の年号が刻まれており、御手洗神社も大国神社に合祀されています。神社は干ばつを救った風神(大国主命)を祀るよう皇族の命で造営されたと伝えられています。

(伊勢崎市指定史跡:昭和42年指定)

㊲ 御手洗(みたらい)神社跡地

  (下淵名)

1908(明治41)年に大国神社に合祀されましたが、大国神社以前に創紀されていたと思われます。

下淵名東沼の北西に御手洗神社跡地が残っていますが、以前湧水池があり大国主命が手を洗ったと言う伝説が伝わっています。湧水の水は東沼に注いでいました。

下淵名の獅子舞

   (下淵名)

東新井と同じ日光文狭(ふばさみ)流で、下淵名獅子舞は夕がかりといって、古くは夕方から演じられていたそうです。

舞に先立って気楽流柔術が場を清めるが、まず祭礼棒が行われ、これが後の気楽流柔術に代わっていったものなのか。

(伊勢崎市指定無形重要文化財:平成18年指定)

㊴ 淵名の東沼

  (下淵名)

1783(天明3)年、浅間山が大爆発し境町も火山灰により田畑が埋まり、この噴火で天明の飢饉(ききん)が発生しました。

東沼は天明飢饉のとき飢民救済のため領主の命により三日で掘ったと言い伝えられています。沼の中央部に弁財天の石宮がありましたが、小島が浸食されたので水没をさけて北西の地に移転されました。

石原有物の句碑

  (上渕名)

糸井家墓地の句碑に「皆人の 恵は厚起法の縁」と刻されおり、境町の文政・天保期の有名な俳人でした。

また、長光寺境内の芭蕉句碑裏に辞世句「是れほどの 花に別れて 法の旅」が刻されています。

其日庵有物

1751(宝暦元)年~1832(天保3)年、81歳。

㊶ 淵名神社 

  (上渕名)

元は熊野神社と称し、奈良時代に創建されたと伝えられています。昔上淵名の鎮守は飯玉大明神であり淵名から東新井に向かう道端にありました。

明治41年11月に近衛師団の機動演習が上淵名・東新井で行われました。その時皇太子殿下が境内地で観戦、休憩した事実を永久に記念して、氏子・村人が相談し明治42年 他の無格社も合祠し淵名神社と改めました。その後境内に東宮殿下行啓記念碑を建てました。

御神体は飯玉大明神のもので熊野神社の御神体は分け振られました。

指定東山道駅路

  (上渕名)

飛鳥・奈良時代に国家が整備した道で、奈良の都と東国を結んでいた幹線道路です。この推定東山道駅路は県内を牛堀(上淵名)・矢の原(東新井)ルートが東西に横断しており現在までのところ旧境町(十三宝塚遺跡北)から旧新田町まで一直線に造られたことがわかっています。駅路の廃止後その北側の溝を利用した灌漑用水路牛堀が東西に走っていました。

㊸ 神明宮

  (東新井)

鎌倉時代、藤原秀郷の孫の淵名太夫が東新井の地を領したとき天祖大神を此処に創祀し社領を寄進しました。

また、古くから七母女天宮とともに東新井の獅子舞が奉納されています。

双体道祖神

  (東新井)

元々、道祖神は境界に建てられ、村へ疫病が入り込まないよう信仰した石造物です。この道祖神は男女が肩を組むもので平野部では珍しく、境地区の道祖神は文字塔ばかりで男女の神像を刻んだものはこれ一基だけです。

また、1775(安永4)年の年号が刻まれています。

㊺ 東新井の獅子舞

  (東新井)

この獅子舞は、神明宮と七母女天宮の祭りに奉納されてきたもので江戸時代初期の頃、栃木の足尾を経て東新井に伝わったと言われています。

1978(昭和53)年に復活され、この舞も日光市今市に起こった文狭流です。

(伊勢崎市指定無形重要文化財:平成18年指定)

㊻ 七母女天宮(しちぼにょてんぐう)

   (東新井)

子どもが7人いる女の神様で、そのうちの1人が世良田の八坂神社に祀られている須佐之男(すさのおの)命(みこと)と伝えられています。






『平成30年度「伊勢崎市協働まちづくり事業」補助事業』

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