境地区・東地区

ーー 交通の要所・養蚕・絹業の町 ーー

 この地区は、昭和の大合併で大変な紆余曲折の末実現した。境町は当初新田郡綿打村、世良田村を含めた合併を志向していたが、いち早く綿打村が脱落、島村は埼玉県、伊与久・保泉は伊勢崎市という意向もあったが、境町・采女村・剛志村・世良田村の一部が境町合併で合意し昭和30年に新境町が誕生した。世良田村議会は11対11で賛否互角、住民投票では境2041、尾島2107、現状268という結果で結論に至らず、県の指導で昭和32年世良田村を分村して、平塚・米岡・栄・女塚・三ツ木・西今井・上矢島は境町に、その他は尾島町に合併した。

 この地区の歴史は古く、鎌倉時代に広瀬川の舟運交通が始まる時期から渡船場付近に発達した集落で、江戸時代になると日光例幣使街道柴宿と木崎宿の間の宿として問屋場が置かれた。経済交流の場として六斎市が開かれ、街道沿いに町並みが形成された。境町は間の宿でありながら本陣が2軒あった。

 また、足尾銅山からの銅を江戸へ搬送する水陸交通の接点として栄え、平塚河岸は銅山発見と同時期の慶長15年(1610年)に建設された河岸である。

 江戸中期からは元船の上流までの遡航が困難となり、小舟による中継河岸として年貢米や荷物の輸送を行い、最盛期には河岸問屋が11軒にも及び、現在も北清・京屋などの当時の屋号が残されている。

 境町は江戸末期から明治にかけて糸の集散で栄え、取扱は上州一と称された。明治以降は、商人や職人が定住して商業が活況を呈して伊勢崎銘仙の生産地となった。

編集委員 石倉克明・石原國憲・内田 務・柿沼恵介・渋澤一真・関口吉範・髙澤良彦・高柳昭一・田中敏嗣・中村俊一・堀田浩道・茂木伸司

撮  影   髙 澤 良 彦

 写真集の完成については、編纂に係った皆さん、取り分け写真提供された髙澤良彦氏、本会事務局長の内田務氏、説明文の推敲に尽力下さった編集委員並びに会員の皆様のご協力による賜物である。心より感謝の意を表す。

2021年1月吉日                     NPO法人 境いきいきアイ                  理事長 田中 敏嗣

INDEX(索引)

① 東町の道しるべ ② 稲荷神社の芭蕉句碑  ③ 看板建築 板倉屋薬局 ④ 愛染院道しるべ  ⑤ 浄幻法師供養塔 ⑥ 二十二夜様  ⑦ 井上霞陽頌徳(しょうとく)碑 ⑧ 境町尋常高等小学校門柱  ⑨ 伊勢崎藩主 酒井培堂句碑 ⑩ 幕末の志士 村上俊平君碑  ⑪ 村上随憲の墓 ⑫ 長光寺の芭蕉句碑  ⑬ 山王石猿 ⑭ 長光寺の懸仏 ⑮ 長光寺の和時計 ⑯ 境町道路元標 ⑰ 境赤レンガ倉庫 ⑱ 繭モニュメント  ⑲ 織間本陣跡 ⑳ 織間本陣中門  ㉑ 第二大盛座 ㉒ 絹の橋  ㉓ 絹の館 ㉔ 俳人 織間専車墓所  ㉕ 俳人 長谷川零余子の句碑 ㉖ 力石 ㉗ 豊川稲荷社 ㉘ 金井研香と天田熊郊(ゆうこう)画の奉納絵馬  ㉙ 旧群馬県蚕業取締所境支所 ㉚ 境町駅  ㉛ 大杦大明神 ㉜ 富士塚(築山)  ㉝ 北向地蔵・柿沼氏墓塔 ㉞ 流死霊魂碑  ㉟ 友庵地蔵 ㊱ 徳蔵寺 ㊲ 赤城神社本殿 ㊳ 赤城神社ご神体 ㊴ 赤城神社本殿の彫刻 ㊵ お川入り神事  ㊶ 船積問屋の看板 ㊷ 西光寺の馬頭観音塔  ㊸ 剣術家 田部井源兵衛墓所 ㊹ 平塚公園  ㊺ 庚申塚 ㊻ 福島大尉の墓  ㊼ 道しるべ ㊽ 毘沙門天像  ㊾ 俳人 千里軒一魚の仮山碑 ㊿ 姥石(うばいし)  51 有為碑(ゆういひ) 52 北米岡縄文文化遺跡  53 佐波新田用水路のサイホン 54 女塚薬師堂 55 地蔵尊 56 根岸肥後守墓 
撮影地まっぷ 

本文

① 東町の道しるべ

  (東町)

この道しるべは、1787(天明7)年11月、西国・四国・秩父・坂東供養塔として地元の有志により奉納されました。芝付には東西南北を刻んだ台石、その上に四角の本塔があります。南向きに、向かって右側に「右 江戸・なかせ(中瀬)、左 日光・きさき(木崎)道」、正面(北向)「右 古里やう(五料)・以せさき(伊勢崎)」、正面向かって左「天明七年十一月吉日、此方 せ良田(世良田)・たてはやし(館林)道」と刻まれています。境町での江戸期に建てられた最も立派な道しるべです。

② 稲荷神社の芭蕉句碑

  (東町)

稲荷神社の創建は定かではありませんが、江戸時代の初期と言われています。境内には、芭蕉の「時鳥(ほとと ぎす) 招くや麦のむら尾花」の句碑があります。原句は「招くか」でしたが、碑面を書いた近江(おうみ)義仲寺無名庵第七世重厚が何かの理由で「招くや」としてしまいました。ずんぐりした大きな自然石で、建てられたのは寛政末年(1800年頃)と思われます。句碑の裏面に16名の名があり、その中の元成、梅条らは境町の俳人ですが、境村の城胡以下7人の地元俳人はあまり知られていません。

③ 看板建築 板倉屋薬局

  (諏訪町)

看板建築とは、実際の広告看板が張ってあるわけではなく、建物の表を垂直に立ち上げ高くして瓦屋根を隠し、洋風の雰囲気に近づけるように苦心した造りを云います。

関東大震災1923(大正12)年後に多く建築されました。伝統的な商家(蔵造り)の道路側前面をコンクリート造りにし、耐震・耐火を兼ね備えた建築様式とも云えます。板倉屋薬局は1933(昭和8)年に建てられ、旧蚕業取締所や旧世良田村役場と同様小林半次氏の設計になり、側面はモルタル洗い出し仕上げになっています。

④ 愛染院道しるべ

  (元町)(愛染院境内)

愛染院本堂前左側に道しるべが建っています。台右中央部に二十二夜待の像・文字が彫られ、その左右に、「右 本庄・秩父」、「左 中瀬・江戸道」と刻まれています。最初は、江戸時代中期のわずかの間、利根川の変流により境町元町に大船が着いたと言い伝えられる小字海老(えび)河岸にありました。22日の夜、女性たちが集まって月を信仰する女人講が、二十二夜待の本尊如意(にょい)輪(りん)観音塔と、念仏を百万遍唱えて疫病退散など祈る百万遍供養塔を兼ねた塔として1780(安永9)年10月吉日に建てられました。

⑤ 浄幻法師供養塔

  (元町)(旧称六十六州無縁供養塔)

愛染院参道北側に建つ本塔は、相輪部が欠けていますが、創建時は約4m位の高さがあったと思われます。勢田(多)郡の浄幻法師は、近郷一円に悪病が流行し、これを鎮めるために日本全国の霊場を巡礼しましたが、1753(宝暦3)年3月6日、46歳で世を去りました。2年後の3回忌1755(宝暦5)年3月16日に法師の霊を追善供養するために、遺族や法師を慕った人達によってこの供養塔が建立されました。建塔者・賛助者の名がないので、なぜこの地にあるのかは不明です。

⑥ 二十二夜様

  (南町)(飯島家墓所内)

二十二夜様(本尊:如意(にょい)輪(りん)観音菩薩)を祀るお堂は境小学校北門側道路の東にあり、建立は1759(宝暦9)年と蓮台下石柱に刻まれています。往時は女人講(にょにんこう)(月待ちの祭り)として信仰され、女性が日頃の苦労を忘れるための行事が行われていました。現在は、南町区の祭りとして毎年9月の第一土日曜日に安産・子育ての祈願をはじめ、区民の暮らしの安泰を念じ区を挙げての行事として行われています。260年に亘って続く二十二夜講は秋の風物詩として次の世代への伝承が図られています。 

⑦ 井上霞陽頌徳(しょうとく)碑

  (南町)(境小学校々庭)

本碑は、境小学校初代校長井上霞陽の遺徳碑です。氏は明治5年学制が布告されると、郷里から選ばれて熊谷県で小学師範学科を学んだ後、郷里の各地で教鞭を執りました。

境町に正式に小学校が開校したのは1874(明治7)年10月でこの時実質的な初代校長に就任しました。その後近隣各地で校長の要職を担い、1890(明治23)年2月病没しました。

霞陽の逝去に町民一同は深く悲しみ、境町の小学教育に多大な功績を残した偉業を讃え、1898(明治31)年3月この頌徳碑が建立されました。

⑧ 境町尋常高等小学校門柱

  (南町)

境小学校の校庭東門入口両側に白(しろ)御影(みかげ)石の高い門柱が建っています。左柱の表には「強志力行崇廣業」、裏には「日露戦役記念」。右柱の表には学校名、裏には「明治三十八年十月建設、寄附者吉野鷹蔵と刻まれています。『境町史』に「出征兵士の為に学童達が慰問状や慰問袋等を送り励ました」とありますので、そのお礼と戦勝を記念して建てられたと推察されます。この中国古典からの引用の文は、小学生に向けた「皆さん、強い志を持ち学業に励み、心を磨き立派な仕事をしますように」といった意味合いの言葉と解釈できます。

⑨ 伊勢崎藩主 酒井培堂句碑

  (南町)(瑳珂比神社境内)

瑳珂比神社境内には、いくつかの石碑が建てられていますが、木(き)賈連(かれん)という木を扱う職人や商人の組合が建てた大山祇(おおやまづみ)の神(木を司る神)の石碑があります。1864(元治元)年に建てられました。

碑の裏には、伊勢崎藩主酒井培堂侯の「聞し山に 松はまれなり 十六(しし)の聲」(十六は四×四で鹿のこと)という俳句が刻まれています。

培堂候は文芸に優れた殿様で、組合の人達の願いに応え、¨木¨を詠み込んだ句を寄せたものと思われます。 

⑩ 幕末の志士 村上俊平君碑

  (南町)(瑳珂比神社境内)

瑳珂比神社境内に村上俊平の大きな記念碑があります。俊平は、江戸時代境町に開業していた蘭方(らんぽう)医(い)村上随憲の三男に生まれ、医業は長男の秋水が継ぎました。俊平は、幕末の倒幕運動に奔走し、最後は京都で幕府方に捕らわれ、1865(元治2)年、俊平が27歳のとき処刑されました。

著書に『家言録』、『夢余吟稿』などがあります。碑は俊平の功績を讃え、1917(大正6)年町民有志により建てられました。

⑪ 村上随憲の墓

  (南町)(長光寺境内)

幕末に境町で開業していた医師村上随憲は、現在の熊谷市字久下に生まれました。長崎に来舶した蘭方医シーボルトに西洋医術を学んだ後、はじめ武州本庄宿(本庄市)で開業しましたが、間もなく境町の名主中澤茂七に招かれ、1828(文政11)年夏ごろ境町に来住、現群馬銀行境支店の所で開業しました。随憲は、上州で最も早く牛痘(ぎゅうとう)接種法による種痘(しゅとう)を行いました。館林藩医長沢理玄よりも早い時期でした。1865(慶応元)年11月10日、68歳で没し、最初は伊勢崎善応寺に葬られましたが、後に境町長光寺に改葬されました。

⑫ 長光寺の芭蕉句碑

  (南町)

¨春も漸(やや) けしき調(ととの)ふ 月とむめ(梅)¨ の句碑は本堂手前のすぐ南に建っています。この句碑の建立は、当時有名だった境町の俳人石原有物(うぶつ)が中心になって進めていましたが、完成をまたず他界してしまい、1814(文化11)年、俳友達によって諏訪町の三夜堂境内(阿原食堂の脇)に建てられました。

その後、経緯は分かりませんが昭和になって長光寺に移されました。碑の裏面には、有物の辞世の句に続き、俳人21名の追悼句が刻まれています。

⑬ 山王石猿

  (南町)(長光寺境内)

山王猿の石造は長光寺境内の山王堂に祀ってあります。いつごろ奉祀されたかわかりませんが、多分1816(文化13)年頃と思われ、性神として山王信仰を知る貴い資料です。境町にある山王猿の信仰は婦人の病にご利益があるといわれ、長光寺の山王猿は農村でなく町方にあるので、性神信仰とともに開運の神ともされ、また庚申信仰の対象とされました。「イワシの頭も信心から」などと昔の人はいいましたが、やたらに拝みさえすれば良いというので、病気も開運も五穀豊穣から風雨のことまで祈りをあげたと云われたそうです。

⑭ 長光寺の懸仏

  (南町)

縣仏は、御正体(みしょうたい)としての鏡面に仏像をはめ込んだり、鋳出したりしたものを壁に懸けて祀るもので、神仏習合の一つの考えを表しています。蓮台の上にどっかりと結跏趺(けっかふ)坐(ざ)する本懸仏は、今は持ち物(左手に宝珠、右手に剣?)や鏡板を失っていますが、頭部にうっすらと残る線彫りした五仏の宝冠から、赤城山小沼神の本地仏である虚空蔵菩薩と考えられます。鎌倉時代に造像されたものでしょう。

(群馬県重要文化財:群馬県立歴史博物館寄託)   

⑮ 長光寺の和時計

  (南町)

日本独特の時計で、真鍮(しんちゅう)製の箱の中の機械部が木製の櫓台の上にのせてあるので「櫓(やぐら)時計」とも呼ばれています。

江戸時代は不定時法で、錘(おもり)の下に分銅を下げる2本の棒天符があり、この分銅を昼と夜及び15日ごとに掛け替え、時間の遅速を調整していました。また、台の中には動力となる錘が下がっています。文字盤は十二刻表記で、針一回りで一昼夜になります。寛政年間(1789~1801年)に「ヤスリ」一つの職人技で作られたものと考えられています。

⑯ 境町道路元標

  (仲町)

群馬銀行境支店前に設置された地上高約38㎝、幅・奥行とも約25㎝の石の「境町道路元標」は、"標"文字は埋まっていますが、1919(大正8)年の道路法制定後、大正11年に細目が発布され、これにより設置されました。普通は役場前に設置しますが、境町役場は、大正8年11月19日、現在の境小学校正門北隣に移転開庁したので、境町の道路起点・終点の位置を役場北の大通りに設置しました。1952(昭和27)年、大正時代の旧道路法は無効となり、無用となりました。

⑰ 境赤レンガ倉庫

  (仲町)

この赤レンガ倉庫は1919(大正8)年に境運輸(株)の繭保管倉庫として建設されました。レンガ壁はイギリス積みで、繭の輸送には東武伊勢崎線が使用され、富岡製糸場にも運ばれたそうです。

今では絹産業で栄えた境地区の歴史を伝える貴重な近代化遺産です。その後平成29年11月に改修工事が完成し、現在は1階のホール、2階の多目的スペースが展示会場、会議場等に利用され市民の交流を図る場所として広く利用されています。  

⑱ 繭モニュメント

  (仲町)

境町駅に向かって境橋の右側に「蚕のふるさと境町」と記された「繭モニュメント」があります。この記念石は、昔から境町は養蚕が盛んで品質も良く、生産量も豊富で県内でも有数な養蚕地帯を象徴するものとして造られました。しかし、このように繁栄を見た蚕糸産業も生活様式の変化により衰退を余儀なくされ、1965(昭和40)年代以降は恵まれた土地条件を生かして、桑園から一大野菜産地へと変貌しました。

⑲ 織間本陣跡

  (上町)

境町には本陣が飯島家と織間家の二軒あり、最初に本陣となったのは飯島家でした。織間家は酒造業で大いに栄え、代々源右衛門を襲名。伊勢崎藩より正式に本陣となったのは、文政年間(1818~1830年)からですが、1760(宝暦10)年には既に本陣として諸事を行っていました。境町は、間(あいの)宿(しゅく)だったので休泊はありませんでした。毎年4月徳川家康命日の法要に日光へ向かう例幣使や公家、大名、伊勢崎藩主の江戸からの帰途の小休止に利用されました。1850(嘉永3)年、安中藩3万石藩主板倉甘雨亭侯も小休止しました。

⑳ 織間本陣中門

  (上町)(現在下武士に移築)

日光例幣使道境宿にあった織間家本陣の建物(現在フレッセイ南店駐車場)は、1662(寛文2)年伊勢崎藩士鶴田弥太夫が主君酒井日向守忠能の加増転封により信州小諸へ移封したので随従、空家になったその屋敷を買い取り移築したものでした。

本陣の庭に通じる所にあった中門は、昭和50年代織間家が下武士へ移転した際、一緒に移され、唯一本陣の建造物として残されています。

㉑ 第二大盛座

  (上町)

第二大盛座の前身は、境乾燥場(株)が副業として境町上町(現在は天武駐車場)に三楽座が建設され、1922(大正11)年時は既に開業していました。

のち三島屋興行に経営を委任し、同社が単独で運営するようになりました。三島屋は日活といわれた系列で、年中無休で上映し、無声映画を説明する「活弁」がいました。

1938(昭和13)年頃、経営権を伊勢崎大盛座に譲り、三楽座は第二大盛座と名が代わり戦後に及びました。1969(昭和44)年6月17日夜、火災が発生して焼失してしまいました。以後再建されることはありませんでした。

㉒ 絹の橋

  (萩原町)(境図書館北)

絹の橋が架かる佐波新田用水路は、60余年を経過し、水路の老朽化が進んだことから、旧蚕業事務所前の観音木橋から水路沿いにおよそ延長1,100mが整備されました。

絹の橋は、図書館・絹の館の利用者を初め両岸の人々の往来に重宝され、歩道・四阿(あずまや)・ベンチなどがあり、市民の憩いの場でもあります。その施設は国庫補助事業の「水環境整備事業」として1990(平成2)年~1996(平成8)年にかけて整備されました。

㉓ 絹の館

  (萩原町)

伊勢崎銘仙の機屋として成功した金子仲次郎が、1937(昭和12)年に2万円かけて造った二階建て入母屋造りの建物です。当時、普通の家ならば500円で一軒建てられたそうです。材料は細部にわたるまで吟味されていて、当時としては他にみられない立派な建物でした。「富を残さず徳を残せ」という遺志を継ぎ、遺族の金子るい、政志母子が町に自宅と土地を寄付、町は図書館を建設、自宅は絹の館として整備し、町内の文化団体などに利用されています。

㉔ 俳人 織間専車墓所

  (萩原町)

俳人専車の墓地は、境小学校の北門の道を北に行った旧例幣使道に突き当たる手前の織間家墓地内にあります。専車は織間本陣分家醬油醸造業文左衛門の長子で、境町俳壇の二大家の一人で、1795(寛政7)年没。京都の芭蕉堂高桑蘭更版行の「花供養」の常連。小林一茶が1791(寛政3)年江戸から信州への帰途、熊谷を折れ、わざわざ専車を尋ねて本陣へ来訪したがたまたま京都へ行って留守で、応対した家の者があまりの汚い恰好であったので追い払われてしまったという逸話が残されています。

㉕ 俳人 長谷川零余子の句碑

  (萩原町)(境公民館駐車場)

俳人として全国的に有名な長谷川零余子は少年時代境町で過ごしました。父は今のガストから数軒東にあった派出所の巡査でした。15歳で上京し、苦学しながら文学活動を行い松根東洋城や永井荷風らと交わりました。最初、高浜虚子のホトトギス派に属し、後に立体俳句論を提唱して「枯野」を主宰しました。境公民館の庭に「行(ゆく)秋(あき)や長子なれども家嗣(つ)がず」の句碑が建てられています。1928(昭和3)年、43歳で亡くなりました。妻は、俳人の長谷川かな女です。

㉖ 力石

  (萩原町)(諏訪神社境内)

力石の大きさは縦65㎝、横57㎝、厚さ20cmほどの丸石で、「貫目八十貫目・江戸は組 大願成就」と刻まれています。換算すると300㎏になります。江戸時代にはこんな重い石を持ち上げた人がいるのかと驚かされます。

力石は、力試しに用いられた大きな石で、日本では鍛錬や娯楽として江戸時代から昭和初期にかけて日本全国の村や町で力試しが盛んに行われていました。20世紀後半には力比べの習慣は廃れ、かつてあった力石のほとんどが行方不明になったようです。

㉗ 豊川稲荷社

  (萩原町)(諏訪神社境内)

豊川稲荷社は、諏訪神社の社殿左に位置し、正面に鳥居が建てられ、社殿前に石造の狐が配置されています。奥に巾1m、奥行き1.3m、の社が鎮座しています。稲荷は古来農業の神とされ、狐はその神使と言われます。豊川稲荷社の本社は愛知県豊川市に所在し、多くの稲荷社があるなかで日本三大稲荷社(ほかに伏見・笠間稲荷)の一つとして崇敬されています。江戸時代、稲荷様は商売の神としても人気を集め、全国に広まりました。稲荷社は一般家庭では屋敷の守り神として祀られています。

㉘ 金井研香と天田熊郊(ゆうこう)画の奉納絵馬

  (萩原町)(諏訪神社内)

〇金井研香画:太公望(たいこうぼう)・呂尚(りょしょう)図

 保存状態も極めて良好で、絵の構成に隙がなく、優れた技法で描かれています。周の文王が渭水の畔で釣りをしている太公望と巡り合った場面です。中央にいるのが文王であると思われます。昭和29年県立博物館で開催された上州絵馬展に出品されました。

金井研香画 研香は江戸末期に活躍した島村の絵師。  1868(慶応4)年奉納、願主は萩原の豪商永井京助

〇天田熊郊画:三国志・桃園結義(とうえんけつぎ)

 桃園の誓い、桃園結義とも称され「三国志演義」などの序盤に登場する劉備、関羽、張飛の3人が、乱世を治めようと桃園にて義兄弟(長兄・劉備(りゅうび)、次兄・関羽(かんう)、弟・張飛(ちょうひ))の契りを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話の場面です。

天田熊郊画 熊郊は小此木出身の画師で金井烏洲の弟子。  1869(明治2)年奉納、願主は織間利平英春 橋本広輔貞

㉙ 旧群馬県蚕業取締所境支所

  (清水町)

19世紀の中頃、ヨーロッパで大流行した蚕の恐ろしい伝染病「微粒子病」を防止するため、国は1886(明治19)年に顕微鏡による蚕種検査の徹底を指示し、翌年県内に13個所の検査所が設けられました。そのうちの一つが県内に唯一残っている貴重な絹産業遺産の「県蚕業取締所境支所」です。その後建物は1927(昭和2)年に新しく建て替えられ、ステンドグラスや水洗トイレのついた鉄筋コンクリート造りの立派な建物となりました。一時民間の会社に払い下げられましたが、現在は市の所有となっています。

㉚ 境町駅

  (百々)

境町駅は1910(明治43)年の開設以来、木造の駅舎は度重なる改修を重ね、風雪に耐えて来ました。

この駅舎と一体化した珍しい南北自由通路の跨(こ)線(せん)橋(きょう)が1986(昭和61)年の完成と共に北口にはロータリーも整備されました。駅の「北改札口」は設置されてなく、駅利用者は南口に渡り利用しています。

また、跨線橋は通勤通学者の安全、近隣住民などの利便性を高めています。

㉛ 大杦(おおすぎ)大明神

  (中島)

大杉神社は本社が茨木県稲敷市にあり、船頭や船の守り神として知られています。この大杦大明神は村社飯福神社の西側にある低い築山の北側の裾に、講中によって1801(享和元)年に建てられました。それは、江戸・明治期に農業の村であった中島では、農間(のうかん)の仕事として船頭稼ぎが多く、30艘以上の船が認められるような船頭の村であったためで、大杉講も結成されていたと思います。平成初年までは、1月に大杉・水神様の祭りが行われていました。

㉜ 富士塚(築山)

  (中島)

飯福神社のすぐ前にあります。元は土の山でしたが、1906(明治39)年日露戦役之碑を建てたため、村中で協力して大量の火石を土山に配して今のような築山にしました。

県内でも最大級の築山で、高さは5m程です。南東から石段を上がると頂上に山岳信仰を物語る「富士山」と刻まれた江戸期の浅間(せんげん)神の石宮が南面して据えられています。近在では唯一の富士塚です。中腹には小御嶽大権現の石宮等もあります。西側は昭和初期の道路拡幅により削られ玉石葺になっています。

㉝ 北向地蔵・柿沼氏墓塔

  (中島)

中島公民館南のお小屋掛けの中に、大中小及び角形塔婆に彫った計4体の石地蔵が、珍しく北を向いた姿で東西に並んでいます。中央の大きな地蔵の台座には「享保三(1718)年、奉供養、施主中嶋村」で建てたとあります。時代背景や元の辻に建つという場所柄か、間引き児の供養や子供たちの無病息災等を祈ったものと考えられます。今でも頭巾やお掛け等が掛けられています。その東には1356(延文元)年没の柿沼修理大夫源正明の墓塔があり、所縁の地に柿沼氏の子孫が後の江戸期に建立したと考えられます。

㉞ 流死霊魂碑

  (中島)

1783(天明3)年旧暦の7月8日、3ヵ月程前から断続的に噴火を繰り返していた浅間山が大噴火を起こしました。流れ出した土石流は麓(ふもと)の村々を呑み、吾妻川へとなだれ込み利根川を下りました。この時に中島の人達は、押し流された36体の流死人たちを拾い上げ、地区北東の薬師堂共同墓地に手厚く葬り、「流死霊魂位」と刻んだ供養碑を建立し冥福を祈りました。

今でも流死人の供養を通して嬬恋村鎌原地区と中島地区との交流が続いています。

㉟ 友庵地蔵

  (西今井)

西今井茂木家墓地内に、医師友庵を祀った高さ1m程のお地蔵様があります。武州(ぶしゅう)忍藩(おしはん)家中太田友庵が晩年西今井茂木家で医業を行い、治療は半分しかせず、あとは自然回復にまかせる方法を取り、近郷に名医として知れ渡りました。1785(天明5)年、80歳にて同地で亡くなりましたが、村人が友庵の徳を慕って、追善仏として同年に石地蔵を建立しました。腫れものなどを患うと、地蔵の頭をさすり祈願すると御利益があり、治癒すると縫い針3本を鳥居型に組んで供える風習が昭和40年初頭まであったそうです。

㊱ 徳蔵寺

  (上矢島)(谷島(やじま)信氏館跡)

上矢島徳蔵寺は、新義真言宗のお寺で本山は和歌山県にある根来寺です。今から400年以上前の1594(文禄3)年、藤原頼広が開基し、子猛(もう)弁(べん)上人が開山しました。

頼広の父は、元京都御所の警備武士藤原義頼で、小此木氏とともに太田金山城主由良氏の有力な家臣でした。この地は、遠く鎌倉時代には新田氏の武将谷島三郎信氏の館跡でした。明治の初めには南部儀善が私塾「三余(さんよ)義塾(ぎじゅく)」を設け、漢学を主に大勢の生徒を教育しました。上矢島浄蓮寺、三ツ木真福寺、女塚法楽寺が兼務寺となっています。

㊲ 赤城神社本殿

  (平塚)

平塚の赤城神社は、1401(応永8)年、関東菅領足利満兼が畑一町歩(3千坪)を赤城大明神に寄進したとの法楽寺文書の記録から、それ以前の造立であることがわかります。新田氏の遺臣渋沢隼人が懸仏を分祀し、神仏習合の社となりました。赤城神社の栄枯盛衰の記録は少ないが、現在の本殿は1853(嘉永6)年、下渕名の名工弥勒寺音次郎、音八親子によって造営されたもので本殿彫刻の見事さから、伊勢崎市の重要文化財に指定されています。

㊳ 赤城神社ご神体

  (平塚)(赤城神社所蔵)

赤城神社のご神体は、平塚渋沢氏の祖である渋沢隼人が旧宮城村三夜沢(現前橋市)の赤城神社から分祀し寄進したと伝えられますが詳細は不明です。現在伝えられるご神体は、本地仏(ほんじぶつ)虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)の懸仏で、戦国時代の「永禄十三年(1570年)八月十五日」(注:この年4月23日に元亀元年と改元、こういう例は多々ある)と銘があります。他に磐筒之男(いわつつのおの)命(みこと)、経津(ふつぬし)主命(のみこと)、大己(おおあな)貴(むちの)命(みこと)、菅原道真(すがわらみちざね)公(こう)など七神が祀られています。

㊴ 赤城神社本殿の彫刻

  (平塚)(赤城神社所蔵)

赤城神社の本殿周囲には、沢山の彫り物が飾られています。写真の彫り物は、中国の伝承「唐丸篭と童子」が見事な技で表現されています。ほかには、「天の岩戸開き」、「三韓(さんかん)征伐(せいばつ)」、「赤壁(せきへき)高士舟遊」、「八方睨みの龍」など様々ですが、中国の故事に由来した作品が多く見られます。これらの見事な彫刻は天下の名工と言われた下渕名の弥勒寺音次郎・音八親子によるとされ、市の指定文化財となっています。しかし残念なことに、2007(平成19)年12月に彫刻の一部が盗難に遭い、いまだに行方が知れず誠に惜しまれます。

㊵ お川入り神事

  (平塚)

赤城神社の夏例祭と一緒に毎年7月7日に「お川入れの神事」が執り行われています。昔は真夜中に行われていましたが、今は夕方に行われています。ご神体の懸仏を頭上に戴いた惣代長を先頭に、白装束の惣代達と世話人の代表の行列が利根川へと向かい、川瀬に設けられたしめ縄を張った4本の竹の祭壇中でご神体が素早く洗い浄められます。江戸時代から続くこの神事は、通船業が盛んだった平塚河岸の人達の安全と息災を祈願する伝統行事として連綿として受け継がれています。

㊶ 船積問屋の看板

  (平塚)

平塚は江戸と上州近在の荷物を揚げ下ろしする河岸で、利根川上流で一番問屋の多い河岸でした。この看板は領主の通船認可を受けた元締十二軒組の一軒「内幸」(内田幸七の屋号)のものです。

問屋はそれぞれ荷物も専門化され、塩・魚・醬油・米・豆・木材など、大量取引によって営まれ、舟子・馬子・人足の人事、地主としての仕事も果たしていました。

㊷ 西光寺の馬頭観音塔

  (平塚)

平塚の西光寺には、高さ2m半もある大きな馬頭観音があります。平塚は江戸時代利根川の舟運で栄えた河岸(かし)で、舟の積み荷を運ぶ馬も沢山集まりました。塔は馬への供養と感謝のため、河岸問屋と観音講の募金により1836(天保7)年に造立されました。正面の題字は江戸の詩人大窪(おおくぼ)詩仏(しぶつ)、右側の文書は保泉の詩人鈴木広川(こうせん)、書は伊勢崎藩医今村兼外(けんがい)という当代一流の人が書いています。境地区を代表する立派な馬頭観音塔で、平塚河岸を象徴する石造文化財です。

㊸ 剣術家 田部井源兵衛墓所

  (平塚)

平塚の田部井氏は、新田岩松氏の流れをくむ名族で、戦国時代平塚に移住しました。初代源兵衛盈(みつ)泰(やす)は江戸時代の初め、新当流をきわめて平塚に道場を開きました。五代源兵衛盈(みつ)祥(よし)は吉井の馬庭道場樋口定暠(さだあき)に念流を学び、門弟2千人を教授し中興の祖と言われました。九代源兵衛盈(みつ)時(とき)は、やはり馬庭道場に入って剣法を学び、道場の門弟は生涯3千人ともいわれます。九代に及んだ平塚道場の念流も明治の世で剣法が行われなくなり、二百数十年の幕を閉じました。歴代の墓は平塚西光寺にあります。

㊹ 平塚公園

  (平塚)

公園の設備には、池、細流、散歩道、見晴らし台、キャンプ場、芝生、交流ホールなどがあり、木陰のピクニックなど親子、子供会などで元気な声があふれています。

平塚公園は平成に出来たので、「平塚平成公園」とも云います。

平塚公園の施設の経緯は、次の通りです。

平成10年 流域下水道設置の会発足              平成13年 流域下水道農地の提供                平成20年 流域余地に公園

㊺ 庚申塚

  (平塚)(天人寺境内)

庚申とは干支(えと)の57番目の「かのえさる」を言い、60日毎に催す夜のお祭りで、一晩中眠らず三尸(さんし)(人の体の中にいる三つの虫)をシャットアウトする道教の由来によります。講中が輪番で行事し、終わる頃、酒や食事、七色の菓子の振舞いで夜明けまで歓談宴会が行われ、庶民の楽しい社交の場でした。

天人寺の庚申様は、青面金剛、二童子、三猿(さんざる)、櫂(かい)を持つ二人の像が刻まれた珍しい像塔で、1692(元禄5)年の銘があります。利根川の舟運で栄えた船頭衆の寄進によるものと思われます。

㊻ 福島大尉の墓

  (平塚)

明治の軍人で平塚出身の福島大尉(名は泰蔵)が有名になったのは戦後のことです。

日露戦争に備え、福島大尉(当時。後に少佐)指揮下の弘前31連隊および青森第5連隊の2隊に厳寒の八甲田山雪中行軍が命ぜられました。両隊は別ルートのコースで出発し、福島大尉隊は37名全員が生還、青森隊は210名中199名が凍死という大惨事となりました。当時この事件は、軍の機密のため世にあまり知られませんでしたが戦後になって映画や小説で紹介され、福島大尉の名が有名になりました。

福島大尉は1905(明治38)年の日露戦争の際40歳で戦死し、利根河畔の天人寺に埋葬され、墓地には大尉の功績を讃えた碑が墓と並んで建てられています。

㊼ 道しるべ

  (平塚)(天人寺境内)

この道しるべは角柱で、塔高1m、頂に丸い宝珠を載せています。正面に草書体で「馬頭観音」、右面に「太田、大間々、日光道」、左面に「いせさき、まやばし(前橋)道」、裏面に「寛政七(1795)乙卯年十二月吉日、施主渋沢六右衛門、田部井八右衛門」と書かれ、蓮華台上に立っています。

平塚は舟問屋が多く、この二人も河岸問屋の主人。舟つき場の賑わいをきわめた分岐点に建つ道しるべと馬の供養塔です。川欠で移転した天人寺の庭に遷されました。

㊽ 毘沙門天像

  (平塚)(天人寺所蔵)

平塚天人寺の毘沙門天は、高さ2m以上もある甲冑をまとった立派な像で、左手に長大鉾(ほこ)、右手に金剛杖を持ち、邪(じゃ)鬼(き)を踏みつけ、憤怒(ふんぬ)の相をしています。毘沙門様は仏教を守る四天王の一人で多聞天(たもんてん)とも言い、福徳財貨の神です。以前は毎年4月8日の例祭が盛大に行われ、近郷近在から大勢の参拝客が訪れたそうです。像の作者や作られた年代ははっきりしませんが、修復された色彩鮮やかな毘沙門天像は、天人寺のお堂に威風堂々とした姿で納まっています。

㊾ 俳人 千里軒一魚の仮山碑

  (南米岡)(せんりけんいちぎょ の かざんひ)

「仮山」とは、立派な築庭のことを云い、金井家の庭の一角に、東毛俳壇で有名だった一魚が古希の祝いに建てた「仮山碑」があります。千里軒の名は、林石・池泉を配した見事な庭園を持つ邸宅で、四方から文人が訪れたことから命名されたといいます。

仮山碑には、伊勢崎藩の家老職で俳諧仲間だった関重嶷(しげたか)が一魚の父の事蹟を讃えた文を書き、碑の裏には、一魚の句「亀の尾の白髪くらべむ春の風」が刻まれています。当時の美庭はすべて残っていませんが、仮山碑は江戸時代に当地方でも俳諧が盛んだったことを、今も物語っています。

㊿ 姥石(うばいし)(甘酒ばあさん)

  (北米岡)

姥石伝説は全国に沢山あります。東小学校前の畑の中にある姥石の伝説もその一つです。新田義貞の鎌倉攻めで軍勢が利根川を渡るとき、川端で甘酒を振舞っていたお婆さんを馬に乗った武将大舘宗氏(おおだちむねうじ)の家来が蹴り殺してしまいました。そののち、お婆さんを懇ろ(ねんごろ)に供養してやったところ、石に化(か)してしまいました。姥石を「甘酒ばあさん」と呼ぶゆえんです。

しかし、それは後代に生まれた伝説で、姥石は縄文遺跡内に在(あ)ることから、原始宗教のお祭りのご神体(しんたい)に使われたと云われます。百日咳に利くという信仰と縁日もありましたが、戦後どちらも消えてしまいました。

51 有為碑(ゆういひ)

  (北米岡)(弘教寺墓地内)

この碑は元、東小学校南の北米岡の三叉路に建っていたものです。栗原松四郎(後凋(こうちょう))の功績を称えるもので道路拡幅のため移動されました。北米岡出身の後凋は東京の岡三慶塾で学び塾の有能な人物として期待されていました。伊豆の利島(としま)に塾を開き島民を啓発しましたが、若干28歳で病死しました。島の人々に先覚者として畏敬された後凋は、孔子の弟子顔回(がんかい)のような存在でした。石碑の千字に余る漢文の追悼文を世良田の学者毛呂桑陰が撰書し、篆額は有名な書家の巌谷一六(いわやいちろく)が書いています。

52 北米岡縄文文化遺跡

   (北米岡)

北米岡の東小学校々庭南の小高い畑地から土器や矢尻石、岩版が出土し、調査の結果、後期縄文文化遺跡と認定されました。北米岡は元、高岡(たかおか)と呼ばれ、森や林の丘の南に古利根の流れがあり、狩猟、漁業の生活の出来る場であったと思われます。特に矢尻石(石(せき)鏃(ぞく))が沢山出土しているのは石鏃を作っていた集落があったかも知れません。

今、盛んな考古学により北米岡も本格的に発掘されれば、より歴史が明らかになると思います。

53 佐波新田用水路のサイホン

  (女塚)

このサイホンは佐波新田地域の田を潤すため早川を越える水路で、歴史は1608(慶長13)年に始まり、世良田の東照宮が建設され「御宮御神領御用水」と呼ばれるようになりました。サイホン以前は、女塚から早川を越える掛渡井を「千貫(せんかん)樋(ひ)」と言い、長さ27間、高さ3尺、横6尺の規模の水路で、江戸時代には何度も掛け替えられました。

1964(昭和39)年、早川改修により水路は早川の下を潜り世良田の田んぼへ噴出し逆サイホン型になり、大気の圧力により排水する近代設備となりました。設備点検橋は東武線の南に架けられています。

54 女塚薬師堂

   (女塚)

女塚の東、早川西畔一帯を玄海と言い、その中に小字を「湯殿」という地名があります。この湯殿が女塚薬師鉱泉でした。現在、その場所に女塚薬師堂があり、昔の面影をしのんでいます。

土地の伝説では、源頼朝が開き入湯した鉱泉と伝えられています。この伝説の元は、吾妻(あずま)鑑(かがみ)・巻12に頼朝が「1193(建久4)年5月7日、那須野の巻狩から上州新田義重の新田館へ立ちよった」とあることから、源氏一族の和合と修好があったのかも知れません

55 地蔵尊

  (女塚)(法楽寺境内)

女塚法楽寺参道にお立ちの高さ1mのお地蔵様。赤い頭巾、赤い衿(えり)、女性のようにやさしいお顔。何度も倒れ全身何カ所も修理した姿。錫(しゃく)杖(じょう)、宝珠もなし、沢山な呼び名があるように庶民の救いの菩薩です。冥界の閻魔(えんま)様(さま)の裁きを受ける亡者を助けるのが六地蔵です。

 お地蔵様の真言 

 オ ン カ カ カ     ビ サ ン マ エイ ソ ワ カ

  オンにこにこ   笑いが一番   ソワカ 

56 根岸肥後守(ひごのかみ)墓

   (三ツ木)(真福寺境内)

三ツ木の真福寺に、戦国時代の武将で三ツ木城主であった根岸肥後守繁道の五輪塔と言われる墓があります。400年以上の風化で文字が読めません。真偽不明ですが、土地の人には金山城由良氏に仕えた武将肥後守と伝承されています。

城と言っても、地方豪族である武将の館で堀や堤をめぐらしたものでした。近年まで土塁・周濠があった三ツ木の真福寺跡は、そうした館でした。

真福寺は現在無住で、佐波34番観音札所の第29番になっています。

撮影地まっぷ

(付図)交通の要所・養蚕・絹業の町 ~さかい~

協賛:一般財団法人さかい・ふるさと創生基金

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